明治開化 安吾捕物
その五 万引家族
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)良人《おっと》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)海抜二千|米《メートル》ほどの
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)キョロ/\と
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スギ子未亡人はシンは心のあたたかい人のようでもある。嫁入道具というものを一切持たない咲子の着物のことに気を使ってくれて、季節々々の着物を自分で見たてて作ってくれる。顔に親切を見せないし、優しい言葉をかけてくれることも殆どないだけ、シンの親切が身にしみるのだが、しかしとりつく島もない。威厳があって、キリリと見るからに利巧らしくて、うちとけることも、甘えることもできないのである。
その未亡人に、万引という病癖があると知って、咲子は呆気にとられた。病気というものは、奇妙なものだ。実に厳然として威風そなわり、見るからに利巧そのものの大家の奥様が、万引をするとは意外なことだ。買う金は腐るほど有り余っている大富豪なのである。おまけに、金庫のカギは未亡人の手中にあって、自分で使うぶんには誰に気兼ねもいらないという結構な御身分なのである。
呉服物は三井、貴金属は何屋、小間物は何屋というようにお買いつけの店はきまっている。当今のように店に商品が並んでいるわけではなくて、一々奥の土蔵から店のお客様の前まで品物を運んできて、ひろげて見せる。その品物の中から、お買上げの物のほかに不足した物があれば、万引の犯人はお買い上げの当人にきまっているし、見ず知らずの人ではなくて、顔の知れたオトクイ様なら、犯人の名は一目瞭然というわけだ。
しかし、商店はなれているから、何食わぬ顔、毎度ありがとうございます、と送り返しておいて、月末のツケの中へ、お買い上げ品として万引の品物も書きこんでおく。ちゃんと払って下さるのだから、万引には相違ないが、益々ありがたいオトクイ様でもある。諸方の商店は、浅虫家の未亡人御来店とあればたくさん品々を前に並べ、存分に万引していただくことになっている。
ところが、病癖というものは、遺伝するから怖しい。咲子の良人《おっと》の正司には姉に当るキク子が、やっばり万引してくるのである。
キク子は二十五にもなって、まだ独身者という変り種、非常に美人ではあるが、我が強く、陰気で、無口で、てんで男など眼中にないらしい様子である。立居フルマイが荒々しく、投げやりで、奔放だ。そういう変り者であるから、万引の手口が豪放をきわめていて、人力とは思えないほどゴッソリ持ってくる。コートの裏に何十本というカギのついたヒモがぶら下っていて、ここへ反物を何十反もぶら下げてくるような、妙に芸のこまかい技巧派のところもあるのである。母の血をうけて利巧なことは確かであるから、粗雑、奔放のようでも、無口で陰気で考えこんでいるような放心状態のとき、実は万引の手口について新発明をこらしているのかも知れない。母にくらべて、大胆不敵、武者振り堂々たる万引常習者であった。
彼女らにとっては、買うことと万引とは、結局同じことにすぎないのに、そこは病人のことで、万引は又特別、戦利品というような快感があるらしい。貧故の万引とちがって、金持の万引は完全な病癖なのだから、その快味は又、特別に相違ない。
だから、買ってきた品物は、ちゃんと居間のタンスにしまうけれども、戦利品は土蔵の中へ秘かに隠して貯蔵して、その戦利品の山を日夜のぞきに行って満足しているのだ。だから彼女らは、土蔵の中へは誰も入れない。土蔵は、この家の一番奥の主人夫妻の居間、今では未亡人一人の居間であるが、そこに接している上に、カギは未亡人の手中にあるから、未亡人の眼を盗んで土蔵に入ることは誰もできない。ただ娘のキク子だけは母の居間に出入自由で、同時に土蔵の中へも自由に出入できるらしい。二人は特に仲が良いのである。共通せる病人のせいかも知れない。
大金持の土蔵であるから、実に壮大雄渾な大土蔵で、花川戸の蔵吉という土蔵造りの名人が、九年かかって仕上げたという国宝的な土蔵であった。その大土蔵のどこに、どんな風に戦利品が陳列してあるのか誰も見ることが出来ないが、気品あくまで高き未亡人と、奔放にして美しき娘とが、時々そこへ忍び佇んで戦利品に魅入られている姿を想像すると、咲子は怖しくもあるが、凄いような美しさを感じないこともなかった。
しかし変った家族である。何から何まで変っている。食事にしても、未亡人とキク子は未亡人の居間で差し向いで食べる。フキヤという小女がお二人の係りの女中である。
正司と咲子は、二人の居間で食事する。これにはタケヤという小女が係りの女中だ。
正司の弟の一也という大学生は自分の居間で一人で食べる。これにはハナヤという小女が係りである。まるで銘々旅館に居るようなものである。ちゃんとレッキとした大食堂があるのに、殆ど使うことがない。しかし尤もな理由もある。家族の起居がそれぞれ時間が違っていて、一堂に会して食事をするわけにはいかないのだ。未亡人のお目覚めが最もおそくて、九時ごろ。で、未亡人が洗顔して朝のお化粧を終ったころ、咲子はその居間の外の廊下に坐って、
「お母さま、お早うございます。お姉さま、お早うございます」
と挨拶する。一日に、その時だけしか、顔を合せないような日も多い。用があると、女中がよびにくるが、又、未亡人が自分で咲子のところへ来ることもある。キク子はそんなことは殆どない。しかし二人とも悪い人ではない。風来坊の咲子を憎んだり、さげすんだりしていることはないのである。咲子はそれを有り難くは思うが、どうも、打ちとけられない。母、姉という肉親感はもつことができなかった。
正司と咲子は恋愛結婚であッた。明治には珍しい話で、おまけに咲子は小さな牛肉屋の娘である。女中が手不足で、自分で客に給仕するような小さな店だ。
まだ当時大学生の正司と何も知らずに恋仲になり、あんまり飛びはなれた大富豪の子供と分って、これではとても結婚はできないと思った。正司の親や親類が許してくれる筈がないからである。当時としては、完全に有りうべからざる事情だからだ。ところが、案外にも、正司の母は反対しなかった。そして正司の卒業と同時に、二人は結婚した。時に正司は二十二、咲子は十八。咲子は浅虫家の若奥様となったが、それは去年のこと。まる一年たった近ごろになって、咲子ははじめて浅虫家の秘密が分った。スギ子未亡人が咲子の結婚に反対しなかったも道理、浅虫家は良家と縁組みできかねるような陰惨な血があったのである。万引ぐらいは、まだしも呪われた血の中では軽い方の口であった。
咲子は一也という弟の大学生が嫌いであった。一也は秀才であった。利巧な母と姉にくらべて、この秀才の弟が生れたことは自然であるが、正司だけは不思議に出来が悪い。世間から見れば、バカという程ではないのであるが、この家族の中ではバカが目立つ。一也は兄をバカ扱いである。そこで、その嫁の咲子もバカ扱いだ。いつも皮肉な薄笑いでニヤリ、ジロリと見て、ソッポをむく。それは言葉で皮肉られるよりも、むしろ腹の立つ仕打ちであった。
その一也が、話のハズミで、実に事もなく、自分の家の呪われた血をバクロしたものだ。まるで自分には関係がないように。
未亡人の亡夫浅虫権六は病死となっているけれども、実は自殺したのであった。その自殺もタダの自殺ではなかった。彼は自分が癩病であることを知った。癩の徴候が現れたのを、ひそかに気附いたのである。彼はいろいろ癩について調べたあげく、自分がまさしくその病人の一人であることを確信せざるを得なかったのである。ついに彼は、発狂して、自殺した。しかも、その自殺の悲惨なること。彼は自ら刃物をふるって、自分の癩の徴候の部分の肉をえぐり、皮をはいだ。自らの額の皮までそぎ落したのである。そして、腹を一文字にさいて、自殺した。
咲子は一也の話をにわかに信用するわけにいかなかった。とは云え、良人にきいてみるのも怖しい。なぜなら、なんとなく思い当る節があるのだ。
この家へ家族のように繁々と出入するたった一人の人物がある。その親しさや、威張り返っている様子、人々がなんとなくその人物を煙がりながら鄭重《ていちょう》にする様子から、睨みの利く親類の親玉と思っていたら、正司が病気のとき、カバンをぶら下げ、医者になって、診察に来た。彼は花田医院の院長であった。決して親類ではないのである。
花田がくると、彼は未亡人の居間で酒をのみ、赤い顔をして帰る例であった。未亡人はゆすられているらしい。咲子は一也の話で、謎が氷解した思いであった。亡父権六の癩病、発狂、自殺、という事実を知っているのは花田だけなのだ。そして彼が、病死というニセ診断書を書いたのである。咲子はそこに思い当った。
正司は次男であった。キク子の上に博司という今年二十七になる長男がいるのである。ところが、彼は日本には居ない。父が死んでまもなく、百ヶ日もすぎないうちに、外国へ行った。そして五年になるが、まだ帰ってこない。そればかりでなく、向うの女と結婚して、もう帰国する意志がないらしいという話なのである。未亡人もキク子も、兄は死んだものと、すでに諦めきっているようであった。まったく、この家族たちの感情の上では、兄はもう居ないもの、帰らぬもの、死んだものときまっている様子である。咲子は生きている兄がいると知ったときに、信じられないような気持であった。その謎も、どうやら、解けるではないか。咲子は思い知った。博司は生きて日本には帰ることができないワケがあるのだ。彼はすでに「癩」に犯されているからである、と。
もう一人、毎月、月末に一度だけ、きまって訪ねてくる怪しい人物がいた。野草通作という中年の男である。高価な着物を着流しに、いかにも結構な楽隠居という様子であるが、いかにも人品が下司《げす》である。女中のタケヤにきいてみた。
彼女の話によるよ、野草通作はお茶にも菓子にも手をつけたことがない。包んで貰った菓子は、帰るとき、ハイヨ、と云って見送りの女中に投げてやり、毒があっても知らねえよ、と云いすてて帰るのだという。タケヤはいかにも顔をしかめて、あの男はイヤらしい好かない人物だという表現をするのであるが、その素性については知らない。ここの女中はみんな小女ばかりで、古い女中は一人もいなかった。
女中たちは、花田医師は未亡人の情夫で、野草通作は長兄博司が洋行前に孕ませた女の父だと思っている様子であった。毎月一度月末に勘定とりのような正確さで来るので、そう思うのだろう。博司には、たしかに恋人がいたのである。博司は別れがたいその恋人すらも振りすてて、故国をはなれたのだという、その悲しい話は正司が時々咲子に語ることであった。
咲子は正司にきいた。
「野草さんて、どういう方?」
こうきかれて、正司はイマイマしげに、顔をそむけたが、
「彼奴《あいつ》は以前、うちの下男をしていた奴さ。何かボロもうけして成りあがったらしい。あんな奴には挨拶にも及ばないぜ」
と答えた。
今にして、咲子は思い当るのだ。野草も、亡父の癩病、発狂、自殺、を知る人物なのである、と。医師一人で始末のつく事件ではなかった筈だ。誰かしら、召使いの中にも、それを知り、その後始末に立働いた人物が居るのは当然であろう。野草もユスっているのである。毎月、必ず月末に来ることでも、それを知ることができる。
当時、癩病は、伝染病ではなくて、血筋であると思われていたから、咲子の思いは、当然良人も癩病の筋をひき、自分に生れてくる子供も癩病の血をひくものと信ぜざるを得なかった。
咲子は自分の人生が、暗い幕で行手を立ちふさがれたような絶望を思い知った。この運命からのがれる術はないであろうか。彼女はすでにニンシンしていたのである。まだ良人もそのニンシンには気がつかない。彼女がそのニンシンを独り気がついたとき、その喜びを死の宣告に代えるための悪魔からの伝言のように、一也が呪
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