あるのだ。彼はすでに「癩」に犯されているからである、と。
 もう一人、毎月、月末に一度だけ、きまって訪ねてくる怪しい人物がいた。野草通作という中年の男である。高価な着物を着流しに、いかにも結構な楽隠居という様子であるが、いかにも人品が下司《げす》である。女中のタケヤにきいてみた。
 彼女の話によるよ、野草通作はお茶にも菓子にも手をつけたことがない。包んで貰った菓子は、帰るとき、ハイヨ、と云って見送りの女中に投げてやり、毒があっても知らねえよ、と云いすてて帰るのだという。タケヤはいかにも顔をしかめて、あの男はイヤらしい好かない人物だという表現をするのであるが、その素性については知らない。ここの女中はみんな小女ばかりで、古い女中は一人もいなかった。
 女中たちは、花田医師は未亡人の情夫で、野草通作は長兄博司が洋行前に孕ませた女の父だと思っている様子であった。毎月一度月末に勘定とりのような正確さで来るので、そう思うのだろう。博司には、たしかに恋人がいたのである。博司は別れがたいその恋人すらも振りすてて、故国をはなれたのだという、その悲しい話は正司が時々咲子に語ることであった。
 咲子は正司にきいた。
「野草さんて、どういう方?」
 こうきかれて、正司はイマイマしげに、顔をそむけたが、
「彼奴《あいつ》は以前、うちの下男をしていた奴さ。何かボロもうけして成りあがったらしい。あんな奴には挨拶にも及ばないぜ」
 と答えた。
 今にして、咲子は思い当るのだ。野草も、亡父の癩病、発狂、自殺、を知る人物なのである、と。医師一人で始末のつく事件ではなかった筈だ。誰かしら、召使いの中にも、それを知り、その後始末に立働いた人物が居るのは当然であろう。野草もユスっているのである。毎月、必ず月末に来ることでも、それを知ることができる。
 当時、癩病は、伝染病ではなくて、血筋であると思われていたから、咲子の思いは、当然良人も癩病の筋をひき、自分に生れてくる子供も癩病の血をひくものと信ぜざるを得なかった。
 咲子は自分の人生が、暗い幕で行手を立ちふさがれたような絶望を思い知った。この運命からのがれる術はないであろうか。彼女はすでにニンシンしていたのである。まだ良人もそのニンシンには気がつかない。彼女がそのニンシンを独り気がついたとき、その喜びを死の宣告に代えるための悪魔からの伝言のように、一也が呪われた血の秘密を語りあかしたのであった。
 彼女の胎内に宿った者の中には悪魔がすんでいるのだ。その胎児をおろし、呪われた浅虫家から逃げだすべきであろうか。彼女は良人を愛していた。しかし、それよりも、呪われた血が怖しかったのである。
 自分を下賤の生れの者と見て、呪われた血の一員に平然ひきこんだ未亡人もキク子も憎らしい。又、良人すらも、その悪漢の一人ではないか。良家との縁組みは不都合でも、下賤の者ならよかろうというコンタンには変りがないではないか。
 咲子はにわかに思いみだれて怒りに狂った。彼女は正司を詰問した。
「あなたが牛肉屋の娘を妻に選んだのは、こんな下賤な者なら癩病人の妻になっても苦情はでまいという肚ですね。私はもうこんな家には居りません」
 正司は薄ノロではあるが、金持の子供らしく、チャッカリと、ずるいところ、抜け目のないところを失ってはいない。いずれ、こうなることを覚悟はしていたらしく、ふだんに似ず冷静に応じた。
「オレが癩病患者の子供だということを隠していたのは、済まないと思っている。しかし好きな娘に向って、実はオレの父は癩病になって狂って死んだと云えるわけがないじゃないか。決して悪意があって隠していたわけではない。オレだって、父が癩病を苦にして狂って自殺したときには寝耳に水、その呪われた運命に茫然としたものだ。父が死ぬまで、そうとは知らなかった。父だって、それまで、そうとは知らなかったのだろう。知らなかったからこそ、発病して、にわかに気が狂うほど驚き逆上したのだろうよ。どうか、我々の悲痛な気持を察して、カンベンしてもらいたい」
 こう打ちしおれて詫びられると、咲子も愛情のない良人ではない。しばしは返す言葉もない。思わずホッと溜息がもれてしまう。
「癩病って、顔も手足もくずれるそうじゃありませんか」
「そんな話をしてくれるな。今に我身もそうなるかと思えば、毎日鏡を見るのも怖しいばかりだよ。はじめはオデコや眉のあたりがテラテラ光って、コブのようにかたくなるということだ。父の死んだときは、オレはまだ十八という若い時で、癩病などは何も知らないから、父のどこに異状が現れたのか、気がつかなかったが、毎朝、鏡を見るときのオレのおののく切なさ苦しさを察してもらいたい」
「それにつけても、兄様は正直、潔白な人格者ですよ。離れがたい愛人の方と別れて、外国へお去りになったで
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