これにはハナヤという小女が係りである。まるで銘々旅館に居るようなものである。ちゃんとレッキとした大食堂があるのに、殆ど使うことがない。しかし尤もな理由もある。家族の起居がそれぞれ時間が違っていて、一堂に会して食事をするわけにはいかないのだ。未亡人のお目覚めが最もおそくて、九時ごろ。で、未亡人が洗顔して朝のお化粧を終ったころ、咲子はその居間の外の廊下に坐って、
「お母さま、お早うございます。お姉さま、お早うございます」
 と挨拶する。一日に、その時だけしか、顔を合せないような日も多い。用があると、女中がよびにくるが、又、未亡人が自分で咲子のところへ来ることもある。キク子はそんなことは殆どない。しかし二人とも悪い人ではない。風来坊の咲子を憎んだり、さげすんだりしていることはないのである。咲子はそれを有り難くは思うが、どうも、打ちとけられない。母、姉という肉親感はもつことができなかった。
 正司と咲子は恋愛結婚であッた。明治には珍しい話で、おまけに咲子は小さな牛肉屋の娘である。女中が手不足で、自分で客に給仕するような小さな店だ。
 まだ当時大学生の正司と何も知らずに恋仲になり、あんまり飛びはなれた大富豪の子供と分って、これではとても結婚はできないと思った。正司の親や親類が許してくれる筈がないからである。当時としては、完全に有りうべからざる事情だからだ。ところが、案外にも、正司の母は反対しなかった。そして正司の卒業と同時に、二人は結婚した。時に正司は二十二、咲子は十八。咲子は浅虫家の若奥様となったが、それは去年のこと。まる一年たった近ごろになって、咲子ははじめて浅虫家の秘密が分った。スギ子未亡人が咲子の結婚に反対しなかったも道理、浅虫家は良家と縁組みできかねるような陰惨な血があったのである。万引ぐらいは、まだしも呪われた血の中では軽い方の口であった。
 咲子は一也という弟の大学生が嫌いであった。一也は秀才であった。利巧な母と姉にくらべて、この秀才の弟が生れたことは自然であるが、正司だけは不思議に出来が悪い。世間から見れば、バカという程ではないのであるが、この家族の中ではバカが目立つ。一也は兄をバカ扱いである。そこで、その嫁の咲子もバカ扱いだ。いつも皮肉な薄笑いでニヤリ、ジロリと見て、ソッポをむく。それは言葉で皮肉られるよりも、むしろ腹の立つ仕打ちであった。
 その一也が、話のハズミで、実に事もなく、自分の家の呪われた血をバクロしたものだ。まるで自分には関係がないように。
 未亡人の亡夫浅虫権六は病死となっているけれども、実は自殺したのであった。その自殺もタダの自殺ではなかった。彼は自分が癩病であることを知った。癩の徴候が現れたのを、ひそかに気附いたのである。彼はいろいろ癩について調べたあげく、自分がまさしくその病人の一人であることを確信せざるを得なかったのである。ついに彼は、発狂して、自殺した。しかも、その自殺の悲惨なること。彼は自ら刃物をふるって、自分の癩の徴候の部分の肉をえぐり、皮をはいだ。自らの額の皮までそぎ落したのである。そして、腹を一文字にさいて、自殺した。
 咲子は一也の話をにわかに信用するわけにいかなかった。とは云え、良人にきいてみるのも怖しい。なぜなら、なんとなく思い当る節があるのだ。
 この家へ家族のように繁々と出入するたった一人の人物がある。その親しさや、威張り返っている様子、人々がなんとなくその人物を煙がりながら鄭重《ていちょう》にする様子から、睨みの利く親類の親玉と思っていたら、正司が病気のとき、カバンをぶら下げ、医者になって、診察に来た。彼は花田医院の院長であった。決して親類ではないのである。
 花田がくると、彼は未亡人の居間で酒をのみ、赤い顔をして帰る例であった。未亡人はゆすられているらしい。咲子は一也の話で、謎が氷解した思いであった。亡父権六の癩病、発狂、自殺、という事実を知っているのは花田だけなのだ。そして彼が、病死というニセ診断書を書いたのである。咲子はそこに思い当った。
 正司は次男であった。キク子の上に博司という今年二十七になる長男がいるのである。ところが、彼は日本には居ない。父が死んでまもなく、百ヶ日もすぎないうちに、外国へ行った。そして五年になるが、まだ帰ってこない。そればかりでなく、向うの女と結婚して、もう帰国する意志がないらしいという話なのである。未亡人もキク子も、兄は死んだものと、すでに諦めきっているようであった。まったく、この家族たちの感情の上では、兄はもう居ないもの、帰らぬもの、死んだものときまっている様子である。咲子は生きている兄がいると知ったときに、信じられないような気持であった。その謎も、どうやら、解けるではないか。咲子は思い知った。博司は生きて日本には帰ることができないワケが
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