折も折、同じ署の管轄内で起った奇妙な出来事の報告がきていた。事件の主は、所も同じ万年町の長屋にすむ人力車夫の音次という男である。しかし捨吉とちがって、モーローではなく、上野駅の人力集会所に席をおく車夫である。
昨夕方六時ちかいころ。短い日がトップリくれた時刻であるが、彼が戻り車をひいて公園下、今なら西郷さんの銅像のある山下を通ってくると、二十二三ぐらいと思われる女によびとめられ、根津までと云うので、彼女を乗せて池の端から帝大の方、当時は狐狸の住み場のようなところを通りかかると、
「ちょッと気分がわるいから、車を止めて」
と云う。そこで、車をとめる。女は車を降りて歩くこと五歩六歩、しばらく佇んでいたが、
「アラ、ハンカチを落したわ。香水が匂うから、すぐ分るはず。私の足もとを探して」
というので、音次がチョウチンをかざして地面へかがみこむと、女の足もとに、すぐ見つかった。
「姐さん。いい匂いだねえ」
「そうよ。舶来の上等な香水だから。日本にはめったにない品だから、たんと嗅ぎためておきなさい」
と、こう冗談を言われ、音次もちょッと妖しい気持になった。場所といい、女のなれなれしい態度と
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