、平あやまり、手を合さんばかりにたのんだが、中橋はたまりかねて、
「エイ。うるさい。あれほど堅い指図をうけていながら、主を主とも思わぬ奴。オレは今夜は夢之助のところへ泊るから、急いで車をよんでこい」
 馬車はかえしてしまったから、よその車をよんでこなければならない。
「もう夜もおそうございます。よその車では危うございますから」
 と、ヒサの母は必死にかい口説いたが、
「だまれ。こんな不浄の家にいられるか」
 と、やにわに足蹴にする。襟首をつかまえて、ソレ、車をよんでこい、と戸外へ突きだされたヒサの母は、詮方なく吾妻橋の方まで歩いて、車を一台ひろってきた。しかし、戻ってみると、中橋はすでに立ち去ったのか、姿がなかった。
「オヤ、どうしたんだろう。もう少し、待ってみてちょうだい」
 と、車を小一時間も待たせてみたが、十二時をまわっても、中橋は戻らない。そこへヘトヘトにやつれた女中がションボリ戻ってきて、ワッと泣きだした。彼女はヒサを探しあぐねて、心当りを歩きまわり、途方にくれて空しく戻ってきたのであった。
 新十郎はヒサの母から以上のことをたしかめた後に、
「それで中橋さんは、その後もお見
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