、ここに皮肉な悪縁というべきは、女剣劇の梅沢夢之助である。彼女は道楽書生の敏司と深く言い交した仲であったが、又、彼女には数年前から旦那があり、これが中橋英太郎その人である。中橋にヒサができてからは、寵もうすらぎ、ただ仕送りをうけるだけで、めったに中橋の訪れを見なくなったというが、敏司と深く言い交した夢之助にはそれが苦にはならなくとも、恋人、旦那二ツながらヒサに奪われた怒り恨みは一方ならぬものがあったに相違ない。

          ★

 ヒサが妾宅をでかけたのは、十一月三十日の午前十時半ごろ。三筋町の踊りの師匠のところへお稽古がてら月謝をおいてきて、ちょッと買物に廻ってくると云って、女中をつれて出かけた。
 ヒサは中橋にかこわれて後も敏司と逢う瀬をたのしんでいたが、これが中橋に知れていろいろゴタゴタのあったアゲク、中橋は敏司をよび、ヒサとその母親も立合いの上で、今後は一切ヒサに逢わないという一札を入れさせた。それが十一月五日のことである。中橋はそれだけではおさまらず、人を介して敏司の父にかけあい、息子の監督不行届きであると厳談に及んだという。又、ヒサの母にも厳重に指図して、今後はヒサを決して一人で外出させぬように命じたから、十一月五日以後というものは、どこへ出るにも母か女中がつきそい、ヒサは身の自由を失うに至ったのである。
 中橋は毎月の晦日には、一月の仕事を整理して、多忙な一日を終り、おそく妾宅を訪れて、一二日ノンビリして行くのが例であるから、ヒサの母は心配して、
「今日は晦日だから、旦那がお見えになるよ。二時か三時には間違いなく帰っておいで」
 と出がけに念を押すと、
「わかってますよ」
 とヒサは笑って出かけた。
 ところが夕方四時ごろになって、女中がボンヤリ一人で帰ってきたから、
「オヤ。あんた一人? ヒサはどうしたのさ」
「え? まだお帰りじゃアないんですか」
 女中は顔色を失ったが、
「そうそう。それじゃア、長唄のお師匠さんの方へお廻りだわ。そう仰有《おっしゃ》ってたの。ちょッと見てきます」
 と云って、すぐとびだした。そのまま二人は夜になっても帰ってこない。
 夜も更けて、十時ごろ、中橋は自家用の馬車で乗りつけたが、ヒサが見えないので烈火の如くに怒った。そうなるだろうと怖れなやみぬいていた母親は二三十分間というもの半日用意の文句でなだめつ、すかしつ、平あやまり、手を合さんばかりにたのんだが、中橋はたまりかねて、
「エイ。うるさい。あれほど堅い指図をうけていながら、主を主とも思わぬ奴。オレは今夜は夢之助のところへ泊るから、急いで車をよんでこい」
 馬車はかえしてしまったから、よその車をよんでこなければならない。
「もう夜もおそうございます。よその車では危うございますから」
 と、ヒサの母は必死にかい口説いたが、
「だまれ。こんな不浄の家にいられるか」
 と、やにわに足蹴にする。襟首をつかまえて、ソレ、車をよんでこい、と戸外へ突きだされたヒサの母は、詮方なく吾妻橋の方まで歩いて、車を一台ひろってきた。しかし、戻ってみると、中橋はすでに立ち去ったのか、姿がなかった。
「オヤ、どうしたんだろう。もう少し、待ってみてちょうだい」
 と、車を小一時間も待たせてみたが、十二時をまわっても、中橋は戻らない。そこへヘトヘトにやつれた女中がションボリ戻ってきて、ワッと泣きだした。彼女はヒサを探しあぐねて、心当りを歩きまわり、途方にくれて空しく戻ってきたのであった。
 新十郎はヒサの母から以上のことをたしかめた後に、
「それで中橋さんは、その後もお見えにならないのかね」
「ハイ。その後、お見えになりません」
 そこで新十郎はヒサの母を返らせて、女中をよんだ。
 この女中は長田ヤスと云って二十一。女中にしては、美しい顔立である。中橋には遠縁に当るとやら。両眼失明した母と二人、中橋のわずかの仕送りで小さな家に細々と暮していたが、昨年母が死んでからは中橋家の女中となり、ヒサが妾宅をもつについて、こッちの女中にまわされた。いわば中橋家子飼いの女中だ。
「お前がヒサの姿を見失ったテンマツを語ってごらん」
「ハイ。三筋町のお師匠さんの家へ参りまして、お稽古がはじまりましたから、散歩にでました。頃合いを見て戻ってみますと、奥さんはもうお帰りだとのことでした。買物に行くと仰有ってたから、いずれお見えになるだろうと、お師匠さんのお宅に三時すぎまで待っていましたが、お見えにならないので、いったん戻りました」
 新十郎はやさしく笑って、
「お前、それは違うだろう。本当のことを隠さず申し立てなくてはいけないよ。お師匠さんのもとで、最近ヒサはお稽古したことはなかったのだろう。お前をそこへ残していずれへか荒巻とアイビキにでかけたに相違あるまい。お前はその戻っ
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