、野原で手ごめにしたのとは違うのが当然だ。音次の奴は狐に化かされただけのこと、事件になんの関係もない」
 だが、それにしては、翌朝まで行李を持って廻って、捨て場に窮していたのが、おかしい。
 捨吉の犯行を疑って中橋別荘を訪ね、彼の申し立てが合っているのをたしかめた若い巡査は仲田と云って、メンミツな思考力をもつ優秀な探偵であった。彼はこの事件は捨吉の申し立てが全面的に正しくて、必ずや中橋家に深い関係があるに相違ないと狙いをつけた。
 そこで翌日足を棒にして中橋家の周囲を洗ったアゲク、中橋にはヒサという妾があって向島にかこわれていると知り、ここを訪ねてヒサが十一月の晦日以来行方不明であることを突きとめた。妾宅からヒサの母と女中を署へ連行して首実検させると、まごう方なくヒサであることが判明した。
 ここに至って、捨吉の罪ははれ、モーロー車夫の単純な殺しではなくて、中橋家をめぐって深い事情の伏在する計画的な大犯罪であることが見当がついた。事件は警視庁へレンラクされ、結城新十郎が登場を乞われて魔の犯人と腕くらべをするに至ったのであるが、犯人の世にも聡明な狡智によって幾重にも張りめぐらされた奇々怪々なカラクリ、実に明治最大の智能的殺人事件は、さすがの天才児新十郎もその謎をとくには血の汗のしたたる難儀を要したのである。彼は人に語って、かほど完璧な構成を示す犯罪は外国にも類例稀な、あたかも芸術的性格をおびだ天才的な作品だ、と賞讃したほどであった。

          ★

 警視庁から出張した新十郎はじめ御歴々は探偵を諸方にだしてヒサの身元を洗わせると怪しい人物が多々浮んできた。
 ヒサの実家は菊坂の駄菓子屋、父はなく母親の女手一ツで細々と育てられたが、育つにつれてヒサの美貌は衣を通して光りかがやくばかり、菊坂小町、本郷小町、イヤ、東京小町だなどと評判をよんだ娘である。母親も人目にたつ後家であるから再縁をすすめる人も多かったが、菊坂随一の貧乏世帯を必死にがんばり通したシッカリ者、ヒサが光りかがやくように美しくなるから、ほくそえんで、これで苦労のしがいがあった、然るべき旦那をもたせて老後を安楽に暮しましょうと、せいぜい娘に虫気のつかないように油断なく気をくばっていた。けれども親が案ずるほど虫気がつくのは世のならい。
 ここに医学部の書生で、荒巻敏司という美男子があった。然るべき官員の息子で、赤坂に屋敷があり、本郷へ通学していたが、いつしかヒサと言い交す仲になった。
 ヒサの母は天下の学士といえども、成功が遠い将来にある若い者と結婚させようとは考えていない。大金持の旦那をもたせて手ッとり早く楽をしようと堅く思いこんでいたが、気がついたときには二人はとっくに切っても切れない仲である。敏司の家は裕福な官員ではあるが、当の男はまだ学士にもならぬ医者の卵、業を卒《お》えて開業するのは先の遠い話である。おまけに調べてみると、この荒巻敏司は大学切っての堕落書生で、芸者は買う、娘義太夫や女芸人ともネンゴロとなる、特に女剣劇梅沢梅子一座の花形、梅沢夢之助という美貌の女芸人とは深い仲である。敏司が業を卒えたら、芸人の足を洗って丸マゲに、と、夢之助はたのしい夢を描いて男に金を貢いだりしているという評判である。
 折しも看護婦の常見キミエという十九の娘が、敏司の愛情が他へ移ったのを恨んで服毒し、自殺未遂に終ったが、調べてみると、看護婦の中にも彼と情を通じたものが数名いるらしい話である。娘の聟にはもっての外の道楽息子なのである。
 ところへ事件が起った。本郷の薬屋の息子で、河竹新七の弟子と称する狂言作者見習いの文学青年、小山田新作という者がヒサを見そめて言いよっていたが、ついに短剣をつきつけて自宅の土蔵へつれこんで手ごめにした。気違いめいた男で、手ごめにしたアゲク、裸体にして柱に縛りつけてお灸をすえたり色々と折檻したから、往来を通りかかった巡査が悲鳴をききつけて土蔵へ踏みこみ、ヒサを助けだした。示談でケリがついて新作は罪をまぬがれ、いっそ妻にと正式に申しでた。傷物になっては仕方がないから、母親もあきらめて、新作へ嫁にやろうとしたが、ヒサがウンと言わない。そのとき、ヒサの面倒を見てやろうと名乗りでたのが真砂町に別荘をもつ中橋英太郎であった。話はうまく進んで、ヒサとその母は向島の立派な妾宅に住むこととなった。それがこの五月、わずかに半年前のことであった。
 しかしヒサと敏司の仲は今もつづいていた。敏司は名題《なだい》の道楽書生であるが、ヒサに対する愛着の念はひたむきで、ヒサが中橋の妾になったのを一度ははげしく恨んだが、考えてみれば自分は親のスネをかじる書生の身であるから是非もない。卒業して一本立ちになったらきっと妻に迎えるからと、二人は逢う瀬をたのしんでいた。
 ところが
前へ 次へ
全13ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング