てくるのを待っているのがいつもの例であったに相違あるまい」
 ヤスは涙ぐんで、うつむいた。
「もういっぺん、昨日のことを語ってごらん」
「仰有る通りでございます。お待ちしておりましたが、約束の時間がとっくに過ぎても戻って見えません。悪いとは存じながら、いつもタンマリお駄賃を下さるので、奥さんのイイツケに背くことができませんでした」
「二人はどこでアイビキしていたね」
「私はお師匠さんの家に置いて行かれて、どこへいらッしゃるのやら、存じません」
 これでヒサと敏司がアイビキをつづけていたことがハッキリした。
 そこで多くの探偵をだして、荒巻敏司、中橋英太郎、小山田新作、梅沢夢之助らの数日来の動静をさぐらせてみると、判明してくる事実は、実に意外、又意外の連続である。
 その一。中橋英太郎は十一月晦日以来行方不明。夢之助の妾宅に姿を現していないのみならず、本宅にも音沙汰がない。本宅ではヒサの妾宅にいるものとして意に介していなかった。
 その二。荒巻敏司は十一月二十九日午後四時四十五分新橋発神戸行の直通にのって故郷四国へ赴く筈であったが、その翌日も、翌々日も東京に居た。彼が東京を去ることになったのは、両親が彼の前途に見切りをつけ、退校させて、故郷で実務につかせるためであった。彼は旅装をととのえて家を出ている。家人は彼が東京を出発したものと信じている。
 その三。小山田新作は意外にも三ヶ月前から梅沢女剣劇一座の座附作者をしている。
 さて、その次にもたらされた報告が奇ッ怪をきわめているのである。これは梅沢女剣劇の小屋へ探偵にでむいた班からの報告である。
 女剣劇のかかっていたのは、浅草六区の飛龍座というバラック造りの劇場の番附には入れてもらえぬ悲しい小屋だ。浅草奥山が官命によって取払われたのは明治十七年、その代地として当時田ンボの六区が与えられたが、区劃整理して縦横に道を通じて後、ようやく五六軒の名もないような小屋と、十軒あまりの飲食店などができたばかり、当時は新開地とよんでいたが、今の六区には比すべくもない田ンボの中の小さな遊園地である。一二年後に常盤座ができて、やや劇場らしい劇場が存在することになったが、そうなると、それまでのバラック小屋は年々とりこわされて新しく装いをととのえ、草分け当時のバラックの名は知ることのできないのが多い。飛龍座はまアいくらかマシな小屋であった。
 ここで五ヶ月打ちつづけた女剣劇は、十一月二十九日に興行を打ちきり、三十日に荷造りして、十二月二日から横浜で興行することになっていた。中橋からの仕送りで生活に困らぬ夢之助は、こんな貧乏一座に悲しい舞台をつとめる必要はないのだが、座頭の梅子は夢之助の義理の母、育ててもらった義理があるから、一座からぬけられない。夢之助の美貌と芸達者は座頭以上に一座の評判を支えているから、自分だけ左ウチワというワケにいかないのである。もっとも、旦那に隠れて間夫《まぶ》にあうには、この方が都合がよい便利もあった。
 さて、十一月晦日には、この小屋に、二ツの奇妙な事件が起った。十二月二日からの横浜興行のために、この日は一同荷造りに忙しく、翌一日には車で運ぶ手筈である。
 そこへ現れたのは、この辺では見かけたことのない目のさめるような若奥様風の女である。もっとも彼女が伴ってきた女中風の二十がらみの女は、この辺でよく見かける顔だ。日中殆ど毎日のように新開地をブラブラして、小屋の者ともナジミがあるが、どこの何者だか分らない。この二人づれが小屋の中へまぎれこむと、狂言作者の小山田新作が、どういうワケだか分らないが、美しい方の女に向って乱暴しようとした。人々に距てられ、女中風なのが彼女を抱くようにかばって、夢之助の楽屋部屋へつれこむ。この一座で自分の部屋を持っているのは座長と夢之助だけである。それから、どうなったか、みんな多忙をきわめているから注意している者もなかったが、二三時間後に、女中風の女の方が、奥さんはどこだろう、と方々ウロウロききまわっていたが、誰も女の行方を知っている者がなかったらしい。女中風の女はあきらめて帰ったようである。
 午後になって、いつごろからか、一人の若い女がブラついていた。この女は先程の二人づれとは関係がないらしいが、キリッと美しい女で、年の頃は二十前後である。午後二時ごろ、荒巻敏司が現れて、夢之助の部屋へ行った。まもなく悲鳴が起ったが、人々がかけつけると、すでに女の姿はなく、荒巻が慌てて外套をぬいだり洋服をもんだりしていた。女が荒巻に硫酸を投じて逃げたのであるが、荒巻は外套をボロボロにしただけで、怪我はなかった。夢之助はそのとき小屋に姿が見えなかったので、これも別条ない。
 以上のような二ツの怪事が飛龍座の留守番によって報ぜられた。梅沢女剣劇一座は昨二日来横浜に興行中で
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