といえばたッたこれが一本しか存在しない。藤兵衛は自分の刀で何者かに背後から刺し殺されたものだ。血の海であった。金庫はそのままで物を盗られた跡はない。
「十二時には、もう殺されていたのだなア。すると、宵の口に、やられたのだろう。客が来て、話をしている。ちょッと立った隙に、客が有り合せた脇差をつかんで背後から刺したのだろう」
 虎之介がこう呟くと、花廼屋が笑って、
「そんなこたアどうでもいいのさ。カケガネが内側からかかっていたのがフシギじゃないか。そこが心眼の使いどころだよ」
 虎之介は花廼屋を睨みつけた。至って遠見のきかない心眼のくせに、口だけは利いた風なことを云う。それが一々、虎之介のカンにさわっで仕様がないのである。
 新十郎は家族によって押し倒された板戸を立てかけて入念に調べていた。押し倒されたハズミにカケガネは外れている。カケガネの鐶《かん》は板戸にチャンとついている。
 新十郎は二三尺離れたところから、五寸釘を探しだした。それは明かに、鐶をかけて差しこむための五寸釘である。別に曲ったり、傷がついたところはない。
 新十郎は板戸の鐶とその附け根をしらべていたが、そこにも傷んだ跡はなかった。
「板戸を押し倒した時に、カケガネは簡単に外れたんですね。五寸釘も傷んでいないし、カケガネも傷んでいませんよ」
「するてえと、カケガネはかかっていなかったんじゃないかなア。何かの都合で戸の開きグアイが悪いのを、早合点して、カケガネがかかっているものと思いこんだんじゃないかねえ」
 これをきいて喜んだのは虎之介。プッとふきだして、
「何かの都合ッて、なんの都合で戸が開かなかったんだい。その都合をピタリと当ててもらいたいね」
「なにかの都合がよくあるものさ」
「ハッハッハ」
 虎之介はバカ声をたてて笑っている。
 新十郎は、まず、最初に疑問をいだいたという女中のおしのをよんだ。二十一二の近在の娘で、ここへきて五年になる。お江戸日本橋の五年の生活で、すっかり都会になれている。
「お前はヒキ戸をひいてみて、カケガネがかかっていると分ったのだネ」
「ハイ。そうです」
「どうしてカケガネがかかっていると分ったのだネ」
「戸のアチラ側ですから別にカケガネがかかっているのを見たわけじゃアありませんが、この戸はカケガネをかけると開きません。ほかに開かない仕掛けはありませんからネ」
「カケガネのことだから、かかっていても、細目にあくだろう。そこからのぞいたら、カケガネは見えそうなものだ」
「そんなことをしなくッとも、戸があかなければカケガネがかかっているにきまっています」
「お前が主人を最後に見たのはいつごろのことだね」
「ゆうべは旦那から指図がありまして、今夜加助がくるだろうから、来たら土蔵へ案内しろと云いつけられていましたから、加助さんの顔が見えると案内しました」
「加助とは、どんな人だ」
「今年の春まで、ここの番頭をつとめた人でございます。五月ごろヒマをもらッて、そのときは、旦那に叱られて、追んだされた筈でございますよ」
「なんで叱られたのだね」
「オカミサンに懸想《けそう》したとか、酔ってイタズラしたとか、そんな噂でございます。それは無実の罪でございますよ。これだけの大家の番頭を十何年もつとめあげて、追んだされてから大そう貧乏して、細々と行商をやってるそうですが、そんな実直な白鼠が、この日本橋にほかに誰がいるものですか。みんなよろしくやって、お金をためこみ、女を貯えているものでございます。あの番頭さんだけは、ちッとは女遊びぐらいしたかも知れませんが、ほかの白鼠なみのことは爪の垢ほどもしたことのない律儀者でございます。細々と行商して貧乏ぐらしをしているときいて、旦那は後悔なさったそうですよ」
「今の番頭の修作はどうだえ」
「そんなこたア知りません」
 ほめないところを見ると、否定の意味になるのであろう。
「加助が来たのは何時ごろだえ」
「ちょうど九時すぎごろでございます。三四十分ぐらいして帰りましたが、帰りぎわに、旦那からのお云附けだが、オカミサンと芳男さんを呼んでらッしゃるから、お二人にそう申上げて、土蔵へ行かせてあげて下さい、との話でした。それで、オカミサンと芳男さんに申上げて、お二人は土蔵へいらッしゃったと思いますよ」
「お前が御案内したわけじゃアないね」
「当り前ですよ。オカミサンじゃありませんか。私ゃ、オカミサンと芳男さんが土蔵へはいるのは見ませんが、出てきてからのことなら、知っていますよ。オカミサンは台所へきて、一升徳利をわしづかみに、ゴクゴク、ゴクゴク、六七合たてつづけに呷《あお》りましたね。にわかに酔っ払って、大そうな剣幕で、土蔵の中へあばれこんだのを見ていました。芳男さんがそれを追って行って、中で十分か二十分ぐらいゴタゴタしていまし
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