とんでもない。駈けつけたのは、まア、四分の一ぐらいでしょうか。四分の三は自分の場所を動きません。ただ、何事ならんとお梨江嬢の倒れた方を見ておったのです」
「あなたは加納さんの倒れるところを見ましたか」
「まことに、おはずかしいが、オイドンはお梨江嬢の方に気をとられて、犯人と犯行の瞬間を目撃いたしておりません。両名で担っておった山カゴがグラグラと前へゆれて傾きおるから、ふと見ると、五兵衛どんが胸か腹をおさえて、前へトントンとのめるように倒れるところでした。あの人は剛気ですから、その瞬間になっても、山カゴを担った片手は放しません。そのとき、五兵衛どんのフシギな様子に気づいて、横っとびに駈けよりざま、ちょうど倒れた五兵衛どんを抱きとめようとした虚無僧がありました。両手でだきとめよったから、手にした尺八が音をたてて落ちましたな。後にアミ笠をとりよったのを見ると、この虚無僧は油絵描きの田所金次ですわ。今夕の仮装者には、もう一人虚無僧がおりましてな。これは政商、神田正彦でありました」
「すると、それまで、被害者に接近した人はなかったのですか」
「その四五分前に総理大臣が五兵衛どんのところへこられましてな。ちょッと用談がありました。すると五兵衛どんは令夫人を目でさがしましてな、折よく近いところでフランケン大使と踊っておるのを認めまして、そこへ行って一二応答があったようです。五兵衛どんは戻ってきて総理に復命しました。そういえば、そのとき、五兵衛どんはなんとなく顔色すぐれぬ様子でしたなア」
 新十郎はうなずいて、
「では、現場へ御案内ねがいましょう」
 星玄は案内に立つ。鹿蔵も一しょに四人が内へ進もうとすると、星玄はおどろき呆れて虎之介をジロジロ見まわしながら、
「あんたはイカンなア。ヘコ帯に素足。今夕は各国の大公使が列席しておりますぞ。あんたは、国威を失墜しよるなア」
 自分がいわれつけていることを言っている。虎之介はぶッとふきだして、
「総監はハダカにフンドシですが、国威を失墜しましたなア」
「ヤ。しまった」
 新十郎は中に立ってとりなしてやった。
「探偵はあらゆるものに変装しますから、そう見ておいたらよろしいでしょう」
「ヤ。結構々々」
 星玄は満足して四人を案内する。舞踏場内では、人々は壁際へあつまり、真ん中はひろびろとして、その一角の床上に、雲助姿の加納五兵衛がうっぷして死んでいる。彼の肩をはずれた山カゴが、彼の死体の一部であるかのように、横にころがっていた。
 新十郎は死体をしらべた。五兵衛の脾腹《ひばら》に突きささっている一本の小柄《こづか》。手裏剣に用いるものだ。刃の根元まで突きこんでいるが出血は少い。
 虎之介は小柄の方角を目で追って、
「捩じまがって倒れたのでないとすると、ちょうど楽隊席の方角だなア」
「なんの方角だえ?」
 と花廼屋が虎之介の心眼に挑戦するが、虎之介はこんな小者は歯牙にもかけない様子。
「犯人が手裏剣をうった方角だ。田舎通人には分るまいが、犯人は人々の注意がお梨江嬢に向けられている瞬間をとらえて、手裏剣をうちおったのさ。だから総監も犯人の姿を見ておられん。総監が気づいた時には、被害者は脾腹をおさえて、前へ泳いでいたのさ」
 花廼屋はうれしそうに笑った。
「お主、剣術使いだが、真剣勝負をしらないなア。幕府には新撰組という人殺しの組合があったが、お主はそれほどの人物ではなかったようだ」
「真剣勝負とは、何のことだ」
「手裏剣が柄の根元までブスリ突き刺すものか、ということさ。人の腹はやわらかいが、豆腐にくらべてはチトかたいなア」
 虎之介は目を怒らして田舎通人を睨みつけたが、小者を相手にしていられない。腕をくんで、曰くありげに、死体の方へ目をこらした。手裏剣の刺す力。なるほど虎之介はそれを知らない。しかし、誰だって知らないだろう。人間の脾腹ぐらい、打ちようによっては刀身いっぱい刺すかも知れないのである。田舎通人の愚論ごときは物の数ではない。
 脾腹へうちこまれた小柄のほかには、どこにも傷がなかった。どこからともなく飛び来った小柄一本が瞬時に命を奪っている。五兵衛はカッと目をあけ、口もあけて、何かいいたげに、四つん這いに倒れて死んだのだ。横ッとびに飛んで抱いた田所金次も、五兵衛の言葉をきかなかった。
 新十郎は総監に何かたのんだ。星玄坊主はいかめしくうちうなずいて、雲助の直立不動、胴間声で叫んだ。
「満堂の淑女ならびに紳士諸君。加納五兵衛殿の死の瞬間、すなわち、不肖が叫び声をあげた時に於ける皆様方の位置へ各々お立ちを願います」
 国威を失墜しないように熱心に言葉をギンミしている。
 そこで一同、めいめいその時の位置へ立ったのを見ると、国家の秘事に関係をもつ人々、両大使、善鬼総理、典六、みんな壁際にいて五兵衛の倒れた場所から遠くはなれている。探偵たちの注意は一様に、虚無僧姿の神田正彦をさがしもとめたが、これも五兵衛と遠く離れた壁際にピッタリ寄り添っているのであった。
 花廼屋はいぶかしそうに星玄にきいた。
「加納さんが倒れる前後に、この近ぺんにいた虚無僧は田所さん一人でしたか」
「左様。その瞬間にこの近くにいた虚無僧は一人だけのようです」
 五兵衛の家族たちもいい合したように、遠く彼から離れていた。アツ子はフランケンと組んで、楽隊席の下のあたりを踊りつゝあった。そこは手裏剣のとんできた方角だが、五兵衛の倒れた場所から四間ぐらい離れていた。虚無僧の田所は、その中間に、最も五兵衛に接近して位置していた。彼は尺八をふいて歩いている最中であった。
 反対側の最も近い場所にいたのが、満太郎である。現場から二間ぐらいの所をちょうど通りかゝっていた。
「卒倒なさった御令妹の方へ行こうとなさったのですね」
 と新十郎がたずねると、
「いゝえ、ただなんとなくこッちへ歩いてくる途中でした。私は人々のさわぐ様子で何かが起ったと知りましたが、妹が倒れたとは知りませんでした」
「あなたは倒れるお父上の姿をごらんになりましたか」
「倒れる瞬間には見ておりません。倒れた後に、虚無僧姿の田所さんに抱かれて後の姿を見ましたが」
 満太郎は自分よりもちょッと年配にすぎない名探偵に信頼をよせているようだった。彼の目はジッと新十郎にそゝがれて、今にも何か言いたげであったが、フッと目をそらしてしまった。
 来会者は訊問されることもなく、すぐ解散を許された。
 残ったのは、総監と、特に居残りを命じられた楽士であった。
「あなた方は一段高い席におられたのですが、犯行を目撃された方はおりませんか」
 答える者がなかった。新十郎はうなずいて、
「犯人は煙のように人を殺しているようですね。しかし、被害者の倒れる瞬間を目撃された方はいるでしょうね」
 五兵衛がヨロけて泳ぎだしてから、やがて横っとびに虚無僧が抱きかゝえるまで見ていた者が三名いた。
「被害者が泳ぐ様子をごらんになったとき、何をしていると思いましたか」
「左様。泳ぐというよりは、前の方へうつむきがちに、しゃがみこむように見えましたな」
 と一人が答えた。他の一人もそれに和して、
「そう。そう。私も、そう見たね。おや、あの雲助はしゃがむんだナ、というようにね。それだけのことだ。別に死の前のどうこういう様子に見えたわけじゃアない」
「しかし、しやがみながら、胸をかきむしったなア。こう、何か胸にだきしめるような様子だった」
「胸に? 腹じゃアないのですか」
「イヤ。つまり、何かだくような様子です。だくといったって、ハダカだから、だいてるわけじゃアないなア。つまり、胸をこう、こすったのかな。私はハッキリ見ました。つまり、あれは死の苦しみというのかなア」
 彼らの目撃していたことは、それだけであった。
 新十郎は楽士を帰して、女中、下男、書生ら、二十数名をよびあつめた。そして、何か変ったことに気附かなかったかと尋ねたが、お絹という若い女中が、おそく戻ってきた五兵衛の謎のような呟きを記憶していたほかに変異を見ている者はいない。
 お絹は顔をあからめながら、
「ハッキリ覚えてはおりませんが、幽霊にだまされた、……」
 お絹は自分の言葉に笑いだして、
「ですが、ほんとに、そう仰有《おっしゃ》ったのです。そして、まさか、アレが生きてやすまい、なんて仰有ったようです」
「戻られたのは、何時ごろですか」
「会場の皆様が大分おあつまりになって後のことでした。いそいで御飯を三膳、お茶づけで召しあがって――お急ぎのときは、いつもそんなです。一二分で、かッこむように召しあがるのです。そして雲助に扮装あそばしてお出になる、三十分もたつかたたぬに、あの御有様でした」
 新十郎は車夫をよんだ。
「御主人はおそく戻られたそうだが、どこへお連れしたのだえ?」
「烏森の夕月でした。何御用かは存じ上げません。ただ、お帰りのときに、まさか人のイタズラとは思われないが、生きているなら、どうして来ないのだろう。来ないワケはないがなア、と仰有っていました。夕月の女将に、誰それが見えたら、使いをよこすように、と仰有ってたようです」
 訊問をうちきって、一行が帰りかけると、広間の階段の陰から現れた花のような娘があった。娘はツカツカと一行の前へすすみでて大胆に新十郎を見つめて、
「あなたが、大探偵?」
 新十郎はまぶしそうに笑った。
「犯人は分りましたか?」
 娘はたたみこんだ。
「残念ながら、手のつけようがありません」
 新十郎が神妙に答えると、娘の目はもえるように閃いた。
「私、気絶していましたから、お父さまの死になさるのを見ておりませんが、虚無僧姿の田所様が介抱なさったそうですね」
「仰有る通りです」
「虚無僧には、きっと秘密があるものですわ。昔からそうなんですッて。その秘密をお探しなさるといゝわ。下男の弥吉じいやに、おききあそばせ」
 そう言いすてると、お梨江は、自分の言葉にあわてた様子で、電光石火、逃げてしまった。
「あの方が、気絶した令嬢ですか。壺の中の蛇にねえ。気絶ですか」
 新十郎は、つまらぬことを呟きながら考えこんだ。ふと気がついたらしく、
「兄の満太郎さんも、何かいいたげの様子でしたよ。あの兄妹はなにか訴えたいことがあるんですねえ。とにかく、弥吉じいやをよんでみましょう」
 弥吉は六十に手のとどく、当家で最古参の使用人であった。病死したお梨江の実母には赤誠をもって仕えた忠僕であった。
「じいさん。ご苦労さまだね。こまったことになったなア。お前も心痛のことだろうよ。ところで、お嬢さんがお前に訊いてくれといって、大そう慌てた様子で逃げて行かれたんだが、田所さんという洋行帰りの油絵師に、どんな秘密があるのだえ?」
 弥吉は新十郎を見つめていたが、
「お梨江嬢さまが私にきけと仰有ったのですね?」
「そうだよ。ハッキリ、そう仰有ったよ」
 弥吉はゆっくり、うなずいて、鋭く新十郎を凝視した。
「では申上げます。田所さまは当家の奥様の情夫でございますよ。昨日今日の仲ではござらん。田所さまの洋行前から、そのようでありました。一子良介様も、どなたの種やら、神仏が御存知でござろう」
 弥吉の目は火のような怒りにもえた。そしてキッパリ云いきると、一礼してさっさと行ってしまった。
 一同はタメイキをついた。
 星玄坊主、耳の穴をグリグリ清掃して、
「イヤなことを、きくなア。こげん時には、耳がないといいと思う。ワア、つらい!」
 気の弱い警視総監があるものだ。
 帰りかけていた新十郎は、なにを思いだしたか、再び女中たちの部屋へ戻って、お絹をよびだした。五兵衛が裏門から戻ってきて、飯を三膳かッこんで、雲助に扮装して出て行くまでの順を、その場所について一々辿っていった。
「御主人は酒をおのみにならないのかね」
「いゝえ。大そう豪酒でいらッしゃいます」
「宴会前に茶漬三膳は妙だねえ。せっかくの美酒がまずいだろうに」
「いゝえ。御前様には一風変った習慣がおありでした。重大な御宴会には御飯を召上っておでかけでした。深酔いをさけるためでございます」
「なるほどねえ。
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