である。
お梨江はその朝アツ子の部屋へよばれた。アツ子は朝寝で、午《ひる》すぎて目をさまし、みんなと一しょに食事したこともないし、亭主五兵衛の御出勤を見送ったこともない。
「あなたは、今夜の舞踏会で、どんな仮装なさいますか」
お梨江は継母にこう問いつめられて、
「私、仮装なんか、しないわ」
「じゃア、マスクなさるのね」
「いいえ。マスクはきらい。舞踏会もきらいなのよ。だから、今夜はお友だちと乗馬のお稽古にでかけますのよ」
アラレもないことを云う。アツ子は大名の娘だから、威あって、猛く、たちまちお手打にするようにツンととんがって、鉛色の目玉に妖気がこもった。
「あなたの仮装はここに用意してございます。あなたは沐浴《もくよく》のヴィーナスに仮装あそばせ。泰西名画の画中人物です。満太郎さまが御帰朝の折テラコッタの壺をお持ち帰りでしたから、モスソをたらし、壺を抱えて、たのしい沐浴の場所をさがして川辺を歩くかに、さも軽くお歩きあそばせ。そして」
ここでアツ子はお梨江を刺殺するように見つめて、
「チャメロスさまがあなたのお手をおとりでしたら――チャメロスさまは回教徒のサルタンに仮装あそばしておいでです。チャメロスさまをみちびいて庭の静かな木蔭の芝生へいらッしゃるのがよろしいわ。そして壺の中からウイスキーをとりだして、大使さまにおすすめあそばせ」
スソのながいネマキをきたようなヴィーナスと、毛布を裸体にまきつけたようなサルタンと芝生で酒宴とは奇怪な話。ピンかなにか急所をチョイと外すと、今のストリップ式にどっちもハダカになるのはワケがないという段取りに見える。
アツ子は善鬼や五兵衛の手先ではなかったはずだが、にわかに片棒かついだかと思うと、大名の娘というものは威張りかえって勝手なことを命じるものだ。
「私はね。壺の中からコブラだすわよ。イー」
お梨江は大名の娘を睨みつけて、ヒラリと体をかわして逃げだした。
しかし、大名の娘ともなれば、先祖代々つたわッたる警備の魂、トノイを侍らし、番人をつけ、隠密をさしむける本能は後日に至っても失せたことがない。アツ子の腹心の女どもが要所要所にはりこんで、お梨江はとうとう脱出不可能と相なった。
五兵衛はその日、早く戻って来客を接待すべきであるのに、いつまでも戻ってこない。来客が半数ちかくも来たころになって、人力車を急がせ、ころげこむように裏門から戻ってきて、
「イヤハヤ、幽霊に化かされた。アイツが生きている筈はないからな」
汗をふきふき、謎のようなことを呟いたが、大急ぎに飯を三杯くって、箱根の雲助に扮装して、舞踏会場へかけこんだ。雲助だから汗をかいて駈けつける、真にせまった名演技と云いたいが、当人はそれどころじゃない。
というのは、来客にも失礼だが、相棒に大失礼というわけだ。即ち、警視総監の速水星玄という大坊主が雲助の相棒で、山カゴをかたえにひかえて五兵衛の来場を今か今かと待っているのだ。この大坊主はノンダクレで、カンシャクもちで、礼儀知らずで、泥棒をふんじばるには持ってこいだが、国際的な社交場へつれてくると必ず国威を失墜するという念入りの男。そのくせ当人は社交場へでるのが好きで仕様がない。お前、社交界へでちゃイカンといわれるのが何より辛くて、悶死しそうな煩悶ぶりを見せるから、仕方なしに招くのである。
五兵衛が駈けつけると、星玄は正式の戸口にいないで、給仕女が料理を運ぶ戸口の陰にカゴをおいて、通行する給仕女をよびとめては、酒肴をまきあげて、よいキゲンになっている。五兵衛を見ると、
「ヨ。きた。きた。お前、先棒をかつげ。オレは後棒だ。野郎を乗っけちゃいけないぜ。美人、美人。ナ。野郎をのッけると、放りだすから、そう思え」
大変な警視総監があったもの。
ハラショーと、大坊主のカケ声もろとも、二人は山カゴをかついで、舞踏会場へ躍りこんだ。
総理大臣善鬼はヨロイ、カブトに身をかため、軍配を片手に、ひどく落着いた扮装であるが、実はチャメロスの方を見てはハラハラ、いったいお梨江嬢は何をしているのだろう、いつ現れるのだろうと、居ても立ってもいられぬぐらい気をもんでいる。
チャメロスも内々イライラしているらしいが、それを見てとって、まるでからかうかのように彼の側から離れずさッきから話しかけているのは、神官に扮装した典六である。
フランケンはと見ると、これはマスクをかけただけ。そして、同様マスクだけのアツ子とくんで踊っている。神田正彦も来ているはずだが、何者に扮装しているのか、彼の姿は見つけることができない。
善鬼はたまりかねて、雲助の五兵衛をよびとめて、
「お梨江嬢はどうした。いまだに姿が見えんじゃないか」
「ハ? イヤ。すでに来ているはずですが、見こぼしておられるのではありませんか」
「バカな。オレは三十分も前から目を皿にして見ているのだぞ。ヤ。あんた、加減がわるいのか?」
五兵衛の額に脂汗がういている。息づかいが荒い。しかし五兵衛はちょッと笑って、
「いえ、カゴをかついで走りすぎたせいです。お梨江のことは、さっそく、手配いたしましょう」
彼はフランケンと踊っているアツ子のところへききに行ったが、戻ってきて、
「じき現れるそうです」
「そうか。それで安心した」
善鬼もよろこんで自分の席へ戻った。
お梨江が現れたのは、ちょうど、その時であった。彼女はアツ子の命じたように、沐浴のヴィーナスに扮装し、壺をかかえて現れた。にこやかに、落ちついて、あたりを見廻しながら、チャメロスの方へ歩をはこぶ。チャメロスに三歩ぐらいに近づいたとき、ふと腕にさわるものがあるのに気がついて、壺をかかえた左腕を見やった。
「アッ!」
からだを真二つにたち斬られたような、小さな、鋭い悲鳴が、お梨江の口から発した。お梨江が見たのは蛇であった。壺の中から這いだしてお梨江の腕にまきついているのだ。
お梨江はバッタリ壺を落して、割れた壺の上へ自身もフラフラと倒れてしまった。
人々はドッとお梨江の方へ駈けつけた。チャメロスはお梨江をだき起した。人々は蛇を踏み殺した。そして口々に罵りさわいだ。しかし、そのとき、
「オ、オーイ。医者! 医者をよんでくれ!」
大きな胴間声が起ったのは、お梨江をとりまいた人群れから遠く離れた一角であった。
人々がそッちをふりむいてみると、大坊主の雲助が山カゴをおッぽりだしてウロウロしているのだ。黒衣の虚無僧が、尺八を放して、もう一人の雲助をだき起している。
加納五兵衛が殺されたのである。警視総監の目の前で。
大坊主の星玄が、ともかく警視総監の職分を忘れなかったのは結構であった。
「みなさん。お静かに! お静かに!」
なに、一番あわてふためいて騒いでいるのは、お前じゃないか。しかし、星玄は一人で大井川の流れをせきとめているような大そうな手つきをして、
「暫時、そのまま! そのまま! ゆゆしき犯罪が起りましたぞ。暫時そのまま、御セイシュクにお願い致します。医者と探偵が参るまで、この場をうごいては、いけませんぞ」
加納邸が牛込矢来町にあったのは不幸中の幸というものだ。星玄坊主の頼みの綱といえば、紳士探偵、結城新十郎をおいて外にはない。紳士探偵は神楽坂に住んでいるのである。
星玄は加納邸の警備に当っていた巡査の中から、古田鹿蔵という老巡査がいるのを知ると、大よろこび、
「お前がいたのは何よりだ。一ッ走り、神楽坂の新十郎どんをつれてこい。それ、急げ。もっと走れないか。ノロマのモウロクたかり」
そこで鹿蔵は一生ケンメイ走った。彼は元々結城新十郎附きの巡査なのだ。新十郎に用があると、駈けつけるのが役目であった。
新十郎は旗本の末孫、幕末の徳川家重臣の一人を父にもったハイカラ男。洋行帰りの新知識で、話の泉の五人分合せたよりも物識りだ。それに鋭敏深処に徹する大々的な心眼を具えている。
彼の右隣りに住んでいるのが、泉山虎之介であった。虎之介は町道場をひらいているが、警視庁の雇いで、巡査に剣術を教えるのが商売の一つである。
虎之介は馬鹿の一念、凝り性であるが、特別探偵に凝っている。心眼をこらしてジッと考えこむのが愉しくて仕様がないという因果な男だ。そこで犯罪ときくと、商売をおッぽりだして現場へ駈けつける。弟子の巡査どもをおしのけて、一番前へでると、先ず深呼吸、ヘソの下に力を入れてツブサに観察し、静かに心眼を用いる。しかし彼の心眼はヤブニラミと色盲を合せていた。
わが家へ帰ると、近隣をあつめて見てきた事件を披露して、心眼のハタラキを説いてきかせる。これが彼の人生最高のよろこびだ。ところが新十郎が洋行から帰ってからというもの、彼の心眼に異説をたてて、ピタリと真犯人をあててしまう。虎之介は残念だが、心服せざるを得ない。推理の見事なこと、人の見のがす急所をついて、どのように奸智にたけた犯人も新十郎の心眼をだますことができないのである。そんなキッカケから、新十郎は虎之介の案内で現場へでかけるようになり、いくつかの難事件を手もなく解決して有名になった。
西洋博士、日本美男子、紳士探偵、結城新十郎の名は津々浦々になりひびき、新聞の人気投票日本一、警視庁は、探偵長に迎えたいと頼んできたが、キュウクツな務めは大キライとあって、オコトワリに及んだが、しかし彼も好きな道、雇いという軽い肩書で、大事件の通報一下、出馬して神業の心眼をはたらかすことになっている。この通報に駈けつけて案内に立つ係りが古田鹿蔵老巡査である。
ところが、新十郎の左隣りの住人を、花廼屋因果と云って、ちょッと名の知れた戯作者だ。戯作者などというものは、主として江戸大阪生れの人間がやるものだが、花廼屋は薩摩ッポウで、鳥羽伏見の戦争ではワラジをはいて、大刀をふり廻して、ソレ、駈けこめ、駈けこめ、と、上野寛永寺まで駈けこんできた鉄砲組の小隊長であった。
どういう因果か、この男は小説が好きだ。おまけに、都会の風が身にしみてゾッコン好きであるから、御一新になると同僚はみんな官途について、肩で風をきる中で、この男は志を立て、さる戯作者の門に弟子入りして、大いに道を習い覚えて、小説をものしたところ、外道の世の中、見当外れの通ぶりが意外の功を奏して、バカにされされ、もてはやされてしまったのである。田舎通人、神仏混合、花廼屋因果といえば、人力車夫や女中などには粋人中の粋人とありがたがられて、身にあまる人気を博するに至った。
この男がまた虎之介に輪をかけて凝り屋のところへ、特に探偵のことには凝りに凝っている。古田巡査の靴の音をチャンと覚えていて、この足音が新十郎の門をくぐると、すばやく身支度をととのえて、新十郎のでてくるのを門前に待ちかまえていて、
「さ。では、参りましょう」
とか、懐中時計をチョッとにらんで、
「ウム。こりゃア、急がにゃなるまいて」
なぞと、頼まれて案内にきたようなことをいって、ズンズンついて行くのである。
三人がでかけるころに気がつくのが虎之介で、あわてて帯をしめなおしながら、
「オイ。待て! 待たんか! 卑怯もの。ウヌ」
ホウ歯の書生下駄をつッかけて追っかけてくる。新十郎は花の巴里《パリ》でつくらせた洋服に細身のステッキ。花廼屋も当節の通家であるから、リュウとした洋服にハットをかぶり、ステッキを手に、いつも水府の巻タバコをくわえている。
鹿蔵の注進によって勢揃いした三人は矢来町の加納邸へとやってきた。
星玄は門前まで出迎えて、新十郎に堅く握手して、
「日本ひろしといえども、オハンあるのみ。たのみますタイ」
心痛のあまり、国の言葉で、挨拶する。彼の目には、事のあまりの重大さが、焼きついていて、居たたまれぬほど胸がせまってくるのであった。
「何事が起りましたか」
星玄は事件を説明して、
「かようなわけで、まことに心外ながら五兵衛どんはオイドンの目の前で死んでしもうたのです」
新十郎はやさしい目で彼をいたわって、
「ほかの人々はお梨江嬢の倒れた方へ駈け去って、残っていたのは、あなた方雲助組だけですね」
「
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