せず、ニコリニコリと笑ってみせたという。
交渉は停滞しているとも伝えられ、九分九厘まとまったとも伝えられている矢先であった。加納五兵衛が殺害されたというのだ。しかも、自邸の舞踏会で。
五兵衛自邸の舞踏会というから、あるいはこれも、例の主旨が眼目かも知れない。フランケンが典六と神田によびかけてから、五兵衛は目に見えて焦っていた。毎晩、娘の部屋をひそかに訪問して、跪ずき、涕涙《ているい》し、合掌して懇願していると消息通の噂になっていたほどだ。
「だから、オレは、舞踏会が嫌いなのさ」
と、海舟は謎が複雑で見当がつけかねる腹イセに、舞踏会の悪口を云った。
「曰くある人物が一堂に会したのがフシギだな。一堂に会することにフシギはないのだが、五兵衛自邸の舞踏会てえのが曲者なのさ。はやまったことをいっちゃア、新十郎に笑われるかい。オメエの知ってるだけの事件の模様を話してごらんな。後先をとりちがえねえように、石頭に念を入れてやるがいいぜ」
「ハ。ありがたき幸せで」
虎之介は変なところで礼を云って一膝のりだして意気ごんだ。海舟から智略をかりて、結城新十郎や花廼屋《はなのや》因果に一泡ふかしてやろうという宿年のコンタンがあるからである。そこで石頭に念を入れ、大いに、前後に自戒して、静々と語りはじめた。
★
この仮装舞踏会は、最初の計画では鹿鳴館でやるはずであった。五兵衛は時代の風潮にならって立派な宴会室を新築し、すでに二三度使用したこともあるが、閣僚や各国大公使を招いての大宴会には格が不足だと卑下していた。しかし、すすめる人もあって、自邸で行うことになったが、鹿鳴館には及ばないが、卑下するほどの安建築でないことは、五兵衛も内々まんざらではないと心得てもいたのであった。
五兵衛の女房アツ子は大名華族の娘で二十七、後妻である。云うまでもなく、お梨江の実母ではない。実母はお梨江と兄の満太郎をのこして病死している。満太郎はケンブリッジ大学に学んで、今しも帰朝したばかりであった。今回の仮装舞踏会も表向きではないけれども、内々は満太郎の帰朝記念、一人前の日本紳士として彼を世におくりだすのが五兵衛の願いであり、よろこびであった。そういう家庭的な私事が、表向きではないとはいえ、実は眼目でもあるから、鹿鳴館は遠慮して、自邸を使用するのが穏当だろうと五兵衛も次第に考えたのである。
お梨江はその朝アツ子の部屋へよばれた。アツ子は朝寝で、午《ひる》すぎて目をさまし、みんなと一しょに食事したこともないし、亭主五兵衛の御出勤を見送ったこともない。
「あなたは、今夜の舞踏会で、どんな仮装なさいますか」
お梨江は継母にこう問いつめられて、
「私、仮装なんか、しないわ」
「じゃア、マスクなさるのね」
「いいえ。マスクはきらい。舞踏会もきらいなのよ。だから、今夜はお友だちと乗馬のお稽古にでかけますのよ」
アラレもないことを云う。アツ子は大名の娘だから、威あって、猛く、たちまちお手打にするようにツンととんがって、鉛色の目玉に妖気がこもった。
「あなたの仮装はここに用意してございます。あなたは沐浴《もくよく》のヴィーナスに仮装あそばせ。泰西名画の画中人物です。満太郎さまが御帰朝の折テラコッタの壺をお持ち帰りでしたから、モスソをたらし、壺を抱えて、たのしい沐浴の場所をさがして川辺を歩くかに、さも軽くお歩きあそばせ。そして」
ここでアツ子はお梨江を刺殺するように見つめて、
「チャメロスさまがあなたのお手をおとりでしたら――チャメロスさまは回教徒のサルタンに仮装あそばしておいでです。チャメロスさまをみちびいて庭の静かな木蔭の芝生へいらッしゃるのがよろしいわ。そして壺の中からウイスキーをとりだして、大使さまにおすすめあそばせ」
スソのながいネマキをきたようなヴィーナスと、毛布を裸体にまきつけたようなサルタンと芝生で酒宴とは奇怪な話。ピンかなにか急所をチョイと外すと、今のストリップ式にどっちもハダカになるのはワケがないという段取りに見える。
アツ子は善鬼や五兵衛の手先ではなかったはずだが、にわかに片棒かついだかと思うと、大名の娘というものは威張りかえって勝手なことを命じるものだ。
「私はね。壺の中からコブラだすわよ。イー」
お梨江は大名の娘を睨みつけて、ヒラリと体をかわして逃げだした。
しかし、大名の娘ともなれば、先祖代々つたわッたる警備の魂、トノイを侍らし、番人をつけ、隠密をさしむける本能は後日に至っても失せたことがない。アツ子の腹心の女どもが要所要所にはりこんで、お梨江はとうとう脱出不可能と相なった。
五兵衛はその日、早く戻って来客を接待すべきであるのに、いつまでも戻ってこない。来客が半数ちかくも来たころになって、人力車を急がせ、ころげこむ
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