まつたとき、初めて感慨を洩らし、道徳を確立し、風景を眺め、而して出発すべきであります。
不幸にして、日本にはかやうな教養伝統がありません。単なる博学は教壇的なものであつて十年の勉強によつてもかなりのものを会得しうるが、この感情の教養は全く家庭的なものであつて、父子数代の歴史を賭け、誠実にして真剣な追求と教訓と内省と感受と表現とによらなければ、ちよつと会得しがたいのではないでせうか。
日本の心境小説は、貧乏や情痴に対する内省批判の方法が十年一日の如くであつて、十年一日の規準によつて笑ひ怒り歎き悲しんでゐるために読む勇気がないのですが、私としては、喜怒哀楽を更に掘りさげ追求しきることによつて、新しき批判法を、道徳を、ひいては一切の精神上の価値を確立せずには、文学すべきではないと思はれます。悲しみ、怒り、歎く前に、果してここで悲歎していいのかと批判を働かしてみることは、然し已に一応の教養をもつた人間にとつては、甚だその既得の思想に瞞着され易いものであつて、ただこれだけの単純なことでも、相当の難事のやうであります。要するに、日本の小説家に罪があるのではなく、感情にも追求といふ苛酷な手段のあ
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