未来のために
坂口安吾
織田作之助が死んだ。「可能性の文学」は日本文学に対する彼の遺書的な抗議であつたが、実は、これくらい当り前の言葉はない。
織田はアンチテエゼだと自ら述べているのだが、文学における可能性とかウソというものは、実はオルソドックスだつたので、そこに日本文学の悲劇もあつたし、織田の悲劇もあつた。
昔、オスカア・ワイルドがアンドレ・ジイドの口を指して、お前の口はいつも本当を語つていますと示威しているような厭味な口だ、ウソをつくことを知らない口だ、と罵倒した話がある。
そのジイドでも、文学は「実在の人生」でなければならぬ、などとは毛頭考えてはおらぬので、人間にはあらゆる通路が可能なのであり、考え得るあらゆる可能の人生が同時に実在の人生であることを、文学の最も当然な前提としている。それがなければ生活の進歩、モラルの進歩すらも考えられないではないか。
ところが、日本文学の伝統は、特に近代以降の日本文学の伝統は私小説、つまり、作家の生活の偽らざる複写をもつて文学の正統としている。志賀直哉を文学の神様と称したり、宇野浩二を文学の鬼と称したり、また、秋声を枯淡の風格とか神品
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