をもつてゐた。いつかドシャ降りの雨のとき、自分の外套をどうしても私にきせ、自分は濡れて帰らうとするのである。人を疑らず、人の苦しみを救ふために我身の犠牲を当然とするこの青年の素直な魂は私は今も忘れることができない。
 焼野原になつた後で、偶然、駅で会つた。青年は食事が充分でないらしく、顔はひどく蒼ざめてをり、暁跡のたつた一軒のバラックの行列が寿司屋の行列であることが分ると、私に別れてその行列に加はりに去つた。青年の家は焼けたのである。私はそのときよほどこの青年に私の家へきたまへ。部屋もたくさんあるし家賃などもいらないから、と言はうと思つた。青年には一人の年老いた母があるのである。私はそれも知つてゐた。けれども言ふことができなかつた。この青年の魂が美しすぎ、私を信じすぎてをり、私はそれを崩すに忍びなかつたからである。
 私自身がギャングであつた。私の魂は荒廃してゐた。私の外貌は悠々と読書に専念してゐたが、私の心は悪魔の国に住んでをり、そして、悪魔の読書といふものは、聖人の読書のやうに冷徹なものだと私は沁々《しみじみ》思ひ耽つてゐたのである。
 悪魔といふものは、たゞ退屈してゐるものなので
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