魔の退屈
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)仰有《おっしゃ》る

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五百|米《メートル》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ガチャ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 戦争中、私ぐらゐだらしのない男はめつたになかつたと思ふ。今度はくるか、今度は、と赤い紙キレを覚悟してゐたが、たうとうそれも来ず、徴用令も出頭命令といふのはきたけれども、二三たづねられただけで、外の人達に比べると驚くほどあつさりと、おまけに「どうも御苦労様でした」と馬鹿丁寧に送りだされて終りであつた。
 私は戦争中は天命にまかせて何でも勝手にしろ、俺は知らんといふ主義であつたから、徴用出頭命令といふ時も勝手にするがいゝや何でも先様の仰有《おっしゃ》る通りに、といふアッサリした考へで、身体の悪い者はこつちへ、と言はれた時に丈夫さうな奴までが半分ぐらゐそつちへ行つたが、私はさういふジタバタはしなかつた。けれども、役人は私をよほど無能といふよりも他の徴用工に有害なる人物と考へた様子で、小説家といふものは朝寝で夜ふかしで怠け者で規則に服し得ない無頼漢だと定評があるから、恐れをなしたのだらうと思ふ。私は天命次第どの工場へも行くけれども、仰有る通り働くかどうかは分らないと考へてゐた。私が天命主義でちつともヂタバタした様子がないので薄気味悪く思つたらしいところがあつた。
 さういふわけであるから、日本中の人達が忙しく働いてゐた最中に私ばかりは全く何もしてゐなかつたので、その代り、三分の一ぐらゐ死ぬ覚悟だけはきめてゐた。
 尤も私は日本映画社といふところのショクタクで、目下ショクタクといふ漢字を忘れて思ひだせないショクタクだから、お分りであらう。一週間に一度顔をだしてその週のニュース映画とほかに面白さうなのを見せてもらつて、それから専務と会つて話を十五分ぐらゐしてくればよいので、そのうちに専務もうるさがつて会はなくともいゝやうな素振りだから、こつちもそれを幸に、一ヶ月に一度、月給だけを貰ひに行くだけになつてしまつた。尤も、脚本を三ツ書いた。一つも映画にはならなかつた。三ツ目の「黄河」といふのは無茶なので、この脚本をたのまれたのは昭和十九年の暮で、もう日本が負けることはハッキリしてをり支那の黄河のあたりをカメラをぶらさげて悠長に歩くことなど出来なくなるのは分りきつてゐるのに、脚本を書けと言ふ。思ふに専務は私の立場を気の毒がつたのだらうと思ふ。何もせず、会社へも出ず、月給を貰ふのはつらい思ひであらうと察して、こゝに大脚本をたのんだ次第に相違なく、小脚本ではすぐ出来上つて一々面倒だからといふ思ひやりであつたに相違ない。専務と私には多少私事の関係があるのだが、それは省くことにしよう。
 黄河ををさめる者は支那ををさめると称されて黄河治水といふことは支那数千年の今に至るも解決しない大問題だ。支那事変の初頭に作戦的に決潰《けっかい》して黄海にそゝいでゐた河口が揚子江へそゝいでゐる。これを日本軍が大工事を起してゐるのだが、これが映画の主題で、この方は私に関係はない。私のやるのはその前編で、黄河とは如何なる怪物的な性格をもつた独特な大河であるかといふ、歴史的地理的な文化映画の脚本なのである。
 おかげで私は黄河に就ては相当の勉強をした。本はたいがい読んだ。立教大学の構内に亜細亜《アジア》研究所とかいふものがあり、こゝに詩人で支那学者の、これが又、名前を忘れた、私は三好達治のところで一度会つたことのある人で、信頼できる支那学者であることをきいてをり、亜細亜研究所にこの詩人がつとめてゐるときいたので、訪ねて行つて教へを乞うた。支那学者が他に数人ゐて、あいにく黄河に就て特に調べてゐるといふ専門家はゐなかつたが、ともかくこゝで懇切な手引を受けて、それから教はつてきた本を内山に山本といふこれも教はつた二軒の支那専門の本屋で買つて読みだしたのである。
 又、会津八一先生が、たぶん創元杜の伊沢君からきいてのことゝ思ふが、私が黄河を調べてゐることをきいて、私を早稲田の甘泉園といふところへ招いて、こゝには先生の支那古美術の蒐集があるのだが、黄河に関する支那の文献に就て教へていたゞいた。尤もこの方は支那の本だから、私には読む学力もないので、本の名を承つたといふだけで敬遠せざるを得なかつた。
 実現の見込みのない仕事、つまり全然無意味なことをやれと云つても無理である。私はつくづく思ひ知つた。これが小説なら敗戦後も十年二十年たつたあとでは出版の見込もあるかも知れず、死んだあとでもといふ考へも有りうるけれども、支那の映画などゝは全然無意味で、敗戦と共に永遠に流れて消える水の泡にす
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