ぎない。水の泡をつくれと云つても無理だ。尤も黄河の読書はたのしかつた。殆ど毎日のやうに私は神田、本郷、早稲田、その他至るところの古本屋を廻り歩いて本をさがし、黄河以外の支那に就ても書く為には読みすぎるほど読んだけれども、まつたく脚本を書く気持にはならない。硫黄島が玉砕し、沖縄が落ち、二ヶ月に一度ぐらゐ専務に会ふと、そろそろ書いてくれ、と催促されるが、もとより専務は会社内の体裁だけを気にしてゐるので、撮影が不可能なことは分りきつてゐる。けれども専務の関心が専ら会社内の形式だけであることが一さう私にはつらいので、ともかく月給を貰つてるのだから書かねばならぬと考へるが、さういふ義務によつて全然空虚な仕事をやりうるものではない。月給の半分は黄河の文献を買つてるのだからカンベンしてくれ、と私は内心つぶやいて私の怠慢を慰めてゐた。
私の住居は奇妙に焼残つてゐた。私は焼残るとは考へてゐなかつたので、なぜなら私の住居は蒲田にあり、近くに下丸子の大工場地帯があつて、こゝはすでに大爆撃を受けてゐた。受けたけれども被害はたつた一つの大工場とそのそれ弾の被害だけで、まだその外に十に余る大工場がある。一つの工場が二時間の爆撃だから、先づザッと二十時間かと私は将来の爆撃にうんざりしてをり、そのそれ弾の一つや二つは私の家に落ちるものだと思つてゐた。
したがつて私は昼間の編隊爆撃がこの工場地帯と分つたら五百|米《メートル》でも千米でも雲を霞と逃げだす算段にしてをり、兼々《かねがね》健脚を衰へさせぬ訓練までつんでをり、四米ぐらゐの溝は飛びこすことも予定してゐた。それほど死ぬことを怖れながら、私は人の親切にすゝめてくれる疎開をすげなく却《しりぞ》けて東京にとゞまつてゐたが、かういふ矛盾は私の一生の矛盾であり、その運命を私は常に甘受してきたのである。一言にして云へば、私の好奇心といふものは、馬鹿げたものなのだ。私は最も死を怖れる小心者でありながら、好奇心と共に遊ぶといふ大いなる誘惑を却けることができなかつた。凡そ私は戦争を咒つてゐなかつた。恐らく日本中で最も戦争と無邪気に遊んでゐた馬鹿者であつたらうと考へる。
私は然し前途の希望といふものを持つてゐなかつた。私の友人の数名が麻生鉱業といふところに働いてをり(これは例の徴用逃れだ)私は時々そこを訪ねて荒正人と挨拶することがあつたが、この男は「必ず生き残る」と確信し、その時期が来たら、生き残るためのあらゆる努力を試みるのだと力み返つてゐる。これほど力みはしなかつたが平野謙もその考へであり、佐々木基一もさうで、彼はいち早く女と山奥の温泉へ逃げた。つまり「近代文学」の連中はあの頃から生き残る計画をたて今日を考へてをつたので、手廻しだけは相当なものであるが、現実の生活力が不足で、却々《なかなか》予定通りに行かない。手廻しの悪い人間でも、現実に対処する生活力といふものは、知識と別で、我々文学者などゝいふものはイザとなると駄目なものだ。蒲田が一挙に何万といふ強制疎開のときは箪笥が二十円で売られたもので、これを私からきいた荒正人はすぐにも蒲田へ駈けつけて箪笥を買ひたさうな顔だつた。つまり彼は生き残る確信に於て猪の鼻息のやうに荒かつた。
私には全くこの鼻息はなかつた。私は先見の明がなかつたので、尤も私は生れつき前途に計画を立てることの稀薄なたちで、現実に於て遊ぶことを事とする男であり、窮すれば通ず、といふだらしない信条によつて生きつゞけてきたものであつた。佐々木君や荒君は思想犯で警察のブタバコ暮しを余儀なくされて出てきたばかりであつたから、生きぬいて自分の世界をつくりたいといふ希願が激しいのは当然でもあり、荒君は「石にかぢりついても」どんな卑劣な見苦しいことをしてでも必ず生き残つてみせるのだと満々たる自信をもつて叫んでゐた。荒君は元来何事によらず力みかへつてしか物の言へないたちなのだが、空襲の頃から特別力みだしたのは面白い。空襲に吠える動物の感じで、然しあんまり凄味のある猛獣ではなささうで、取りすまして空襲を見物してゐる私自身の方がよつぽどたちの悪い、毒性のある動物のやうな気がしてゐた。
平野謙が兵隊にとられたのもその頃のことで、彼も亦どんなことをしても玉砕しないで生きて帰つてくるよと育つてゐたが、私が彼を東京駅前で見送つて、くだらん小説を読むより戦争に行く方が案外面白いぜ、と言つたら、人のことだと思つて! と横ッ腹をこづかれた。尤も彼は要領よく軍医をごまかして十日目ぐらゐで兵営から放免されてきた。
ともかく彼等はそのころから言ひ合して敗戦後の焦土の日本でどんな手段を弄し奇策悪策を弄してでも生き残つて発言権をもつ立場に立たうといふことを考へてゐたやうである。尤も彼等は特に意識的にそれを言つてゐるだけで、国民酒場に行列して
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