ゐるヨタ者みたいの連中でも内心はみな自分だけ生き残ることを確信し、それぞれの秘策をかくしてゐる様子でもあつだ。
私は生き残るといふ好奇心に於ては彼等以上であつた。たいがい生き残る自信があつた。然し私はトコトンまで東京にふみとゞまり、東京が敵軍に包囲されドンドンガラガラ地軸をひつかき廻し地獄の騒ぎをやらかした果に白旗があがつたとき、モグラみたいにヒョッコリ顔をだしてやらうと考へてゐた。せつかく戦争にめぐり合つたのだから、戦争の中心地点を出外れたくなかつたのである。これも亦好奇心であつた。色々の好奇心が押しあひへしあひしてゐたが、中心地点にふみとゞまることゝいふ好奇心と、そこで生き残りたいといふ好奇心と、この二つが一番激しかつたのである。死んだらそれまでだといふ諦めはもつてゐた。
私は書きかけの小説を全部燃した。このためにあとで非常に困つたけれども、私はすくなくとも十年ぐらゐは小説などの書けない境遇になるだらうと漠然と信じてゐたので、燃した方があとくされなく、あつちこつち身軽に逃げて廻れると思つたのである。真夏ではあつたが、二度、原稿抵の反古《ほご》だけで風呂がわいた。
私は空襲のさなかで三日にあげず神田などで本を買つてきた。友人達は呆れて、どうせ焼けるぢやないか、と言つたが、私は浪費せずにゐられぬ男なので、酒がのめなくなり、女遊びもできなくなり、本でも読む以外に仕方がないから本を読んでゐたので、私は然しどんな空襲のときでもその本を持ちだしたことはない。何一つ持ちだしたことがない。人から預つた人の物だけ出してゐた。
実際よく本を読んだ。みんな歴史の本だつた。ところが、その歴史が全く現実とひどく近くなつてゐた。見たまへ、第一、夜の光がないではないか。交通機関の主要なものが脚になつた。けれども、さういふことよりも、人間の生活が歴史の奥から生れださうとする素朴な原形に還つてゐた。酒だのタバコで行列する。割込む奴がある。隣組から代表をだして権利を主張する奴がある。権利とか法律といふものは、かうしてだんだん組織化されてきたのだらうと思つた。むかし「座」といふものがあつた。職業組合のやうなものであるが、さういふ利益をまもるための、個人が組合をつくつたり、権利を主張したりするその最も素朴な原形が、我々の四周に現に始まつてゐるのだ。空襲下の日本はすでに文明開化の紐はズタズタにたち切られて応仁の乱の焦土とさして変らぬ様相になつてゐる。供出といふ方法も昔の荘園に似てきたが、やつぱり百姓は当時から米を隠したに相違ない。原形に綺麗なものは何もない。我利々々の私慾ばかりで、それを組合とか団体の力で自然にまもらうとするやうになる。
歴史の流れの時間は長いが、しかしその距離はひどく短いのだといふことを痛感したのである。行列だの供出の人の心の様相はすでに千年前の日本であつた。今に至る千年間の文化の最も素朴な原形へたつた数年で戻つたのである。然し、又、あべこべに、と私は考へた。組み立てるのも早いのだ。千年の昔の時間をまともに考へる必要はない。十年か二十年でたくさんなのだ、と。だから私は敗戦後の日本がむしろ混乱しうる最大の混乱に落ちて、精神の最大のデカダンスが来た方がいゝと思つた。中途半端な混乱は中途半端なモラルしか生みだせない。大混乱は大秩序に近づく道で、そして私は最大の混乱から建設までに決して過去の歴史の無意志の流れのやうな空虚な長い時間は必要でない、と信じることができたからであつた。
それにしても、これほど万事につけて我利々々の私慾、自分の都合ばかり考へるやうになりながら、この真の暗闇の中で泥棒だのオイハギの殆どないのは、どういふわけだらう、私の関心の最大のこと、むしろ私の驚異がそれであつた。最低生活とは云へ、みんなともかく食へるといふことが、この平静な秩序を生んでゐるのだと思はざるを得なかつた。又、金を盗んでも、遊びといふものがないから、泥棒の要もないのだ。
働く者はみんな食へる、貧乏はない、といふことは此の如く死の如く馬鹿阿呆の如く平穏であることを銘記する必要がある。人間の幸福はそんなところにはない。泥棒し、人殺しをしても欲しいものが存在するところに人間の真実の生活があるのだ。
戦争中の日本人は最も平和な、恐らく日本二千何百年かの歴史のうちで最も平穏な日本人であつた。必ず食ふことができ、すべての者が働いて金を得ることができ、そして、たつた一人のオイハギすらもゐなかつた。夜は暗闇であり、巡査は殆どをらず、焼跡だらけで逃げれば捕まる恐れはなく、人間はみんな同じ服装をして特徴を見覚えられる恐れもなく、深夜の夜勤の帰りで不時の歩行が怪しまれず、懐中電燈の光すら後を追うてくる心配がない。あらゆる泥棒人殺しの跳梁する外部条件を完備してをりながら、殆ど一
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