でてはいけない。それがタテマエでしょう。特にこんな大事な対局ですから、と、言葉はきわめて穏かであるが、奥にこもる気魄と闘志、もの凄まじい。
けだし、呉氏がまだ五段のころ、本因坊秀哉名人と何ヶ月にわたって骨をけずるような対局をした。そのとき、秀哉名人が封じ手のあと、一門とはかって、次の手を考えて妙手を発見したとやら、風説があるのである。
そんなことがあるから、勝負に必死の呉氏、言葉は静かであるがゆずらない。
自動車で家へ戻って、玄関から中へ上らず、忘れ物を受けとって、すぐ戻る、と呉氏が深く信頼している読売の黒白童子を立会人とし、自動車に同行せしめることゝして、呉氏承諾。
この車に同車して僕も一応家へ帰る。本因坊に、今日の勝負の感想を問うと、まだ分りません。二日目の午後、三日目の午前中が勝負どころになるでしょうと、答えた。
翌朝八時に、もみじ旅館へ到着すると、ようやく呉氏が起きてきたところだ。食事です、という女中の知らせにも拘らず、食卓へ現れず、しきりに荷物をゴソ/\かきまわしているから、さては持参の卵とリンゴを探しているな、と女中が察して、
「卵は半熟が用意してございます。リン
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