タイム、九時十七分。そのとき呉氏、記録係りに向い、対局の時計だけ、今を九時にしましょう、という。そうする。
 盤に向って、呉八段石を握る。本因坊、丁先と言う。丁。本因坊、先である。
 むしあつい。両氏、羽織をぬぐ。
 本因坊、温顔、美しい目に微笑をたゝえて、考え、石を下していたが、一時間ほどたち、十四手目ぐらいから、顔が次第にきびしくしまって、鋭く盤を睨みはじめた。
 温顔のころは四十五、六の顔に見えたが、鋭くひきしまると、二十四、五の書生の顔になり、逞しく、美しいのだ。こゝに本因坊の偉さがこもっているのだと私は思った。世評には、さしてその実力をうたわれず、然し木谷の挑戦をしりぞけて、二年本因坊を持続しているではないか。彼の実力は、目立たないが、然し、目立つ人々よりも悠々と逞しいのである。それが、このひきしまって鋭く、目の美しい、二十四、五の書生の面影の中に、こもっている。
 二時間、たった。二十五手目、本因坊が考えている。呉氏、目をとじ、ウツラ、ウツラしている。目をとじ、からだを左右にゆさぶっているのは呉氏のクセであるが、どうやら本当にねむいらしく、コックリやり、パッと目をあけ、慌て
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