本因坊・呉清源十番碁観戦記
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ゴソ/\
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上
対局前夜、夕方六時、対局所の小石川もみじ旅館に両棋士、僕、三人集合、宿泊のはずであった。翌日の対局開始が、朝九時、早いからである。
僕が第一着、六時五分也。本因坊、六時五十分。さて、あとなる、呉氏が大変である。
ジコーサマの一行が呉氏応援に上京し、呉氏の宿所へ、すみこんだ。すみこむだけならよかったのだが、即ち、これ宗教なり、よってオイノリをやる、一日中、やるのである。
宿所のオヤジ、カンシャクを起して告訴に及ぶ。哀れ、神様及びそのケン族は、警察に留置さる。呉氏、慌てふためき、これをもらい下げる。時に対局二日前の夜也。
呉氏ら、リュックサックをかつぎ神様をまもって、警察の門からネグラをもとめて行方をくらましたが、ウカツ千万にも、日本中の新聞記者が、この行先をつきとめることを忘れていたのである。
キチョウメンな呉氏が、約束の時間に現れないから、さてこそ神託によって禁足か。捜索隊が東京、横浜に出動する。徒労。悲報のみ、つゞいて至る。
深夜、十二時十分前、もみじ旅館の玄関に女中たちのカン声が上った。呉氏がひとりヒョウ然と現れたのである。
僕らのまつ部屋へ現れるや、ボク、おフロへ、はいりたい。すぐ、フロへはいる。
そこで、僕及び新聞社の人々、別室へ去る。両棋士にゆっくり眠ってもらうため也。
翌朝、八時に、両棋士を起す。呉氏、食卓へ現れるや、食膳を一目みて、オミソ汁、と言う。オミソ汁が呉氏のところになかったのである。持参の卵ひとつ、リンゴひとつ、とりだして、たべる。
世紀の対局は、閑静な庭の緑につゝまれた二階である。
実質的に、名人戦である。呉氏が勝つや、囲碁第一人者は、中国へうつる。これが日本の棋界は怖くて、名人戦がやりにくかったのかも知れないが、そんなに狭いケツの穴ではいけない。
各種の技芸に日本が世界の選手権をめざす今日、他国人に選手権をとられることを怖れてはならぬ。むしろ、それが国技の世界的進出ではないか。この対局を受諾した本因坊は、偉い。彼は実に美しく澄んだ目をしている。
本因坊も、呉氏も、羽織、はかまに改めて、対局場へ現れる。
試合開始、サンマータイム、九時十七分。そのとき呉氏、記録係りに向い、対局の時計だけ、今を九時にしましょう、という。そうする。
盤に向って、呉八段石を握る。本因坊、丁先と言う。丁。本因坊、先である。
むしあつい。両氏、羽織をぬぐ。
本因坊、温顔、美しい目に微笑をたゝえて、考え、石を下していたが、一時間ほどたち、十四手目ぐらいから、顔が次第にきびしくしまって、鋭く盤を睨みはじめた。
温顔のころは四十五、六の顔に見えたが、鋭くひきしまると、二十四、五の書生の顔になり、逞しく、美しいのだ。こゝに本因坊の偉さがこもっているのだと私は思った。世評には、さしてその実力をうたわれず、然し木谷の挑戦をしりぞけて、二年本因坊を持続しているではないか。彼の実力は、目立たないが、然し、目立つ人々よりも悠々と逞しいのである。それが、このひきしまって鋭く、目の美しい、二十四、五の書生の面影の中に、こもっている。
二時間、たった。二十五手目、本因坊が考えている。呉氏、目をとじ、ウツラ、ウツラしている。目をとじ、からだを左右にゆさぶっているのは呉氏のクセであるが、どうやら本当にねむいらしく、コックリやり、パッと目をあけ、慌てゝ立ち上る。四五分して、目をパッチリさせて、新しい顔で、もどってきた。
下
横綱前田山、観戦に現れる。前田山、先般、月刊読売誌上に、呉氏に八子で対戦、敗北したが、角界随一の打手の由である。
とたんに、呉氏、キッと目をあげて、
「双葉関は、どうしていますか」
有無を言わさぬ、ノッピキナラヌ語調である。前田山は、クッタクがない。
「今、上京しとります」
「ホテル、ですか」
と、突きこむごとし。
「部屋を建設中で、両国にいます」
前田山の返答はクッタクがないが、とたんに読売の記者の面々、サッと、顔色を失ってしまう。正午から、安田画伯が現れて、スケッチにかゝる。両棋士の気魄が鋭くて、胸に食いこんで、苦しい、ともらし、三時ごろ、スケッチを終る。
「六時です。封じ手です」
六時五分、本因坊、紙をうけとり、後方へ横ざまに上体を捩じ倒して、封じ手、六十七手目をかきこむ。これを封筒に収めて、第一日を終った。
本因坊は自宅へ忘れ物をしたので、とりに行きたい、といいだした。本因坊と一緒に入浴中これをきいたか、呉氏が、浴室からでてくると、読売の係りの者に、対局中は旅館から一歩も
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