不可解な失恋に就て
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)引率《ひきつ》れて

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)わざ/\
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 人あるところに恋あり、各人各様千差万別の恋愛が地上に営まれてゐることはいふまでもないことであらうが、見方によればどの恋も似寄つたものだといへないことはない。文学や映画の恋の筋書が似寄つたものであるやうに、人生の恋の筋書も似寄つてゐる。あまつさへ人生の恋はむしろ概して先人の型を摸することが甚だ多く、いつぱし自らの情意のままに思ふところを行つた筈が知識高き人にあつても、或ひは若きエルテルの恋を、或ひはドミトリイ・カラマーゾフの粗暴な恋を知らず摸しゐることもあり、一般大衆に至つては通俗文学や映画の恋の型の外に恋することが殆んど不可能にちかい状態ではないのか。
 恋情の発するところ自然にして自由なるべきものが、然し決して自由ではない。このことほど型を逃れがたい、又自らの自然の姿勢を失ひ易い不自由なものはほかに少いやうである。
 たまたま私の身辺に甚だ型破りな、ちよつと判断に迷ふ恋の実例があつたので、その荒筋を書いてみよう。

 私の知人にもう五十を越えたAといふ絵の先生があつた。三十名近い女弟子がゐる中から、いつも五六人の美少女を引率《ひきつ》れて盛り場をぶらついてゐる先生で、その時の様子は甚だ福々しく楽しさうで、我々がそれらの美少女の一人に恋しない限り、決してさういふ先生の姿を憎むことはできない。私はアトリヱの先生の姿も知つてゐたが、アトリヱの先生は魂のぬけがらで、散歩の先生にははづみきつた生命があつた。生々とした喜怒哀楽がよそめに分るのであつた。
 先生は天来稀なフェミニストで、美少女達には常に騎士の礼を持ち、慈父の厳格を持しかりそめにも淫猥な振舞ひはなかつたのだと見る人もあり、然りとすればその潜在性慾の逞しさはジュリアン・ソレルをして修道院に入れたるが如しと説をなす人もあり、敢て美少女に恋人ならぬ人達の中にも、あの先生ほど淫猥な奴も少い、美少女はすべてなで斬りならむなぞと想像を逞うする者もあつた。いづれとも真偽はわからない。
 そのうちに先生は美少女の一人に恋をした。このことは人々に明瞭に分つた。その日まで先生の態度が特定の一人にさし向けられたといふ例は決してなか
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