つたのである。
と、不思議な現象が起つた。といふのはその頃まで決して散歩の同伴者に男性をまぢへなかつた先生が、恋のはじまるとまもなく、男性それも若く快活にして麗しい青年のみを数名選び、散歩のお供の列に加へた。
寛大な恋のとりもち役といふ様であるが、さうしていふまでもなく各々の入りみだれた恋が暗に活躍しはじめたが、しかも最も嫉妬に悩む人はといへば、誰の目にもそれが先生その人に他ならぬことが明瞭だつた。
お供の男女のなんでもない会話すら先生の心臓をかきむしり、先生は苦悩のために窒息しさうでありながら、強ひて何気ない風を装つて連日の散歩をやめなかつた。そのうちに先生の意中の人なる美少女も青年と恋をはじめた。
町を歩いてゐたら、猛烈な勢ひで、野獣の形相をして、目の前を走つて行つた老紳士を見た。それが先生だつたと言ふ者があつた。俺も見た、ある停車場で先生の後姿を認めたので呼びかけようとしたら、先生階段に一足かけたとみるや三段づつ飛び越えて矢のやうに駈け登つて消えてしまつたと或者が言ふ。一人は又にはか雨にぶつかつた先生が、わざ/\濡れるためのやうに公園の奥へぐん/\這入つて行くのを見たと言ふのであつた。
美少女は結婚した。
同時に先生は散歩をやめた。丸々とふとつてゐた先生が突然痩せ衰へ、頬肉は落ち、眼はくぼみ、見る影もない老衰病者のやうになつた。
かうなることは分つてゐるのに、自分の恋がはじまると、どうして先生はお供の列に美青年を加へなければならなかつたか? 我々の知人間では一様に分らないと言ふ。
美少女と結婚したB青年の話をきくと、ほかのお供の青年に当るよりもB青年につらく当るといふこともなかつたと言ふ。悩んだのは徹頭徹尾先生一人だけであつた。
先生は不能者だといふ者もあるが、これは然し当にならぬ。暴風のごとく悩むことが先生の自らも気付かざる趣味であり、潜在性慾と潜在自虐趣味との相剋の結果、即ち潜在裡に潜在自虐趣味の方が克つこととなつたのだらうと見る人もあつた。この場合潜在性慾の敗北は性慾の力の弱きを意味せず、その潜在力の深すぎたことが敗因で、性慾そのものはむしろ強すぎたことにはならぬのかと附言して言ふ、これも当にはならぬ。
結局先生は女好きであつたか知れぬが、この年までまことの恋を知らず、この美少女が初恋で、すつかり戸惑ひしたのだらうと言ふ者もあり、如
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