百万人の文学
坂口安吾
−−
【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)片りん[#「りん」に傍点]
−−
二十年ほど昔「アドルフ」を買ったら百六十何版とあったのを記憶する。百何年という年月とはいえ、こんな一般向きのしない小説が、チリもつもれば山となるらしい。
フランスで一版というのは、だいたい五万部が単位だということであるが、常にハッキリと、また、歴史的にも、そうであったかどうか知らないが、俗説通りに勘定すると、ほかの出版屋の分もあるだろうから、百何年間に一千万人以上の人が一本ずつ買ったと見ていい。
「アドルフ」は傍系の文学で、一時期に流行することがなく、細々といつもだれかしらに読まれている性質のパッとしないものだが、百何年間には千万よまれる。百何年間、同じ本を昔通りの体裁で出している出版屋も根気がいい。
日本の近代的な出版史は短いけれども、この片りん[#「りん」に傍点]をとどめた例もないようだ。全集だ何だと鳴物入りで思いだしたようにやるが、物自体を本来の裸のままオッ放りだして、需要の限り何百千年でもつゞけてやろうというような根気は見当らない。日本では裸一貫おッ放りだして売れるにまかせるような天然居士の商法がなく、思い出しの鳴物入りだから、出版の実績から、作品の歴史的生命を推定する方法がないようだ。万人の見るところ歴史的評価が定まったと見えるのは、啄木、漱石などで、「たけくらべ」なども、そうかも知れないが、すでに現代語でないから、読者の魂とふれあう数が次第に減少するかも知れない。また、金色夜叉などのように、流行歌に、芝居に、お宮と貫一の物語として国民的な伝記として伝承しても、小説としては生命が終っているものもある。
歴史の中に生き残ると、アドルフのような片すみの文学も、百何年かに千万人に読まれるのだから、百万という数は、傑作の読者数の単位としては少なすぎるようだ。
しかし百万人の小説という意味を歴史的な傑作という意味に解すれば、百万人の小説とは、批評家やジャーナリズムから独立して、直接に大衆の血の中によび迎えられて行くものの意味でもあろう。
皮肉なもので、批評家やジャーナリストの高級な価値判定と、読者の血肉としての受けとり方は違うことが多い。批評家やジャーナリズムは龍之介や潤一郎が高しょうに愛読
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング