され文学的に正しく読まれていると認定しているかも知れないが「大菩薩峠」や「出家とその弟子」や「宮本武蔵」が宗教的なふん囲気をもって熟読されている事実は是非もなく、これを硬派の読まれ方とすれば、前者は軟派的、女性的であり、一方が合掌的に、一方がため息的に、要するに読者の血肉の中へ読みとられている度合は同じことだろう。
 高級をもって任じる批評家ほど、作品と読者の魂の結合に無理解なものだ。「戦後派賞」などがその好例で、あの作者の未来のことはとにかく、目下手習いの作品だ。高級を気負いすぎて独善的な批評精神は、コットウの曲線をがん味する一人よがりのワカラズ屋と同種のぜい弱さを骨子にしているものである。
 百万人の文学の性格を一言にいえば、読者が血肉をもってうけとるにこたえるだけの、作者の血肉がこもっていなければいけないということで、鬼の一念によって書かれていることが条件である。
 明治以降、百万人の文学と認めてもよいと思われるものは、見た目にスケールが大きそうな漱石や潤一郎にしても、四畳半できくサワリ程度に小型で、人間と格闘したような大きな荒々しいものはない。現代の作家では、弱々しいセン光の身もだえに似たものであるが太宰がアドルフと同じように百何年後に千万人の魂と結合する程度に愛読されるだろう。



底本:「坂口安吾全集 09」筑摩書房
   1998(平成10)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「朝日新聞 第二二九八九号」
   1950(昭和25)年2月26日
初出:「朝日新聞 第二二九八九号」
   1950(昭和25)年2月26日
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2006年4月8日作成
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