が、私は齲歯を痛めてもならない。斯うして日毎に私達は一時間に零《こぼ》す語数が無に近い程減少して、私達の肉体も無になるのではないかと疑はねばならなかつた。
 併し私は病院のほかに辰夫の家庭へも足繁く通はねばならなかつた。つまり早く退院の手続をとるやうに願ふのが第一で、百円の金が急の間に合はなければ、差当つてチーズやバタの類ひ――といふのが、辰夫の家では父の沒後小さな食料品店を開いてゐたので、さういふ物を届けるやうに依頼するのが役目であつた。公費患者は一ヶ月の食科が一人当三円といふので、殆んど残飯だけを食はされてゐたらしい。
 辰夫の母は、これが又私の苦手であつた。重なる不幸でヒステリイが激してゐた所為もあるし、本来辰夫に遺伝するだけのものを此の人も充分具へてゐたから、話が世の尋常とは余程異つてゐた。
「ふゝん、気狂ひは決して治る病気ではありませんよ――」
 と黄色い顔に歴々と冷笑を泛べて、ひどく私を軽蔑するのであつた。そして、「気狂ひのくせにバタが欲しいなんて斯んな僭越な奴があるでせうか、ねえ貴方……」ひどく馴れ馴れしく斯う言ひ乍ら、遂ひ私をも同腹一味の徒党にして頻りに辰夫の悪口を私と
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