坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)併《しか》し

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)当初|妾《わたし》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)フラ/\
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 畏友辰夫は稀に見る秀才だつたが、発狂してとある精神病院へ入院した。辰夫は周期的に発狂する遺伝があつて、私が十六の年彼とはぢめて知つた頃も少し変な時期だつた。これ迄は自宅で療養してゐたが、この時は父が死亡して落魄の折だから三等患者として入院し、更に又公費患者に移されてゐた。家族達は辰夫の生涯を檻の中に封じる所存か、全く見舞にも来なくなつた。
 辰夫は檻の中で全快したが、公費患者の退院には保護者の保証が必要であるし、それに辰夫は三等患者時代の費用が百円程借りになつてゐたので、退院することが出来なかつた。辰夫は狂人達と一緒に檻の中で封筒を粘つてゐたが、一日七銭の稼ぎになると言つてゐた。
 さういふわけで他に訪れる人がなかつたので、辰夫は私一人を心待ちにして暮した。ところが私は性来最も頼りにならない男で、自分の親切さには凡そ自信を持たないから、人に信頼されたりすると重苦しくて迷惑するのであつた。併《しか》し辰夫は毎日の面会が終る度に必ず目に泪を泛べて、「又明日もきつと来て呉れ給へね、君一人を待暮してゐるのだから」と言ひ乍ら痩せ衰へた指を顫はせ私の手首をきつく握るものだから、私も余儀なく毎日のやうに病院へ足を向けた。
 初めのうちは寧ろ病院へ行くのが珍らしくもあつた。厳めしい石門を潜つてだらしなく迷ひ込む瞬間から、私も一人の白痴のやうにドンヨリしてしまふ精神状態が気に入つたり、それに私は、その頃辰夫のほかに全く友達を持たなかつたので退屈を持余してゐたから。それに又全快し乍ら狂人で暮す此の秀才の物語るところが、その奇怪な心境を通して眺められた此の病院の様々な風変りな出来事や、それに対する鋭いそして奇妙な彼の観察や批評等、全てが興味深いもので、いはゞ私は全く打算的に、面白づくで此の病院へ日参してゐた。
 ところが暫くするうちに、私達の間には話の種が尽きてしまつた。私達は面会の時間中ボンヤリと屈託して、沈黙に悩むあまり、時々自分乍ら思ひもよらない言葉を不意に喉の外へ逃がして気まづい目を伏せ合つてしまふ。心に泛ぶこともないので、明日からは断々乎として訪問を止さうと、私は頻りに其の愉しさを思ひはぢめるのであつた。すると鋭敏な辰夫は勝れた神経で忽ち私の胸中を推察し、別れ際には尚劇しく慟哭して、「迷惑だらうけれど明日も又、ね。君が来てくれないことになると僕は夕暮れを待つ力も失つてしまふ……」さう言ひ乍ら思ひがけない強い力で私の手首を握るので、その突瑳《とっさ》に私ははや明日の負担にフラ/\し乍ら、長い廊下を消え去るやうに歩きはぢめるのであつた。すると看護人に伴なはれた辰夫は別な廊下へ――そこには鉄の扉が三ヶ所にも鎖されてゐるが、まるで私をも幽閉する音のやうに鋭い金属の響を放ち、彼等の去り行く跫音《あしおと》と共に次々に開閉される憂鬱な響が地獄のやうな遠方から聞えてくる。矢張り明日も来なければならないと、悲痛な思ひで決意を強ひられる次第であつた。
 ところが此の病院では私の心掛けが殊勝だといふのであらうか、三十分に規定された面会時間を一時間に――あゝ延長してくれた。この恩典の手前としても私は今日は齲歯《むしば》が痛むからといふ言訳で五十五分に切上げる分別さへ出来ないのであつた。マラルメは頽廃派だから歯が痛むと唄つてゐるが、私は齲歯を痛めてもならない。斯うして日毎に私達は一時間に零《こぼ》す語数が無に近い程減少して、私達の肉体も無になるのではないかと疑はねばならなかつた。
 併し私は病院のほかに辰夫の家庭へも足繁く通はねばならなかつた。つまり早く退院の手続をとるやうに願ふのが第一で、百円の金が急の間に合はなければ、差当つてチーズやバタの類ひ――といふのが、辰夫の家では父の沒後小さな食料品店を開いてゐたので、さういふ物を届けるやうに依頼するのが役目であつた。公費患者は一ヶ月の食科が一人当三円といふので、殆んど残飯だけを食はされてゐたらしい。
 辰夫の母は、これが又私の苦手であつた。重なる不幸でヒステリイが激してゐた所為もあるし、本来辰夫に遺伝するだけのものを此の人も充分具へてゐたから、話が世の尋常とは余程異つてゐた。
「ふゝん、気狂ひは決して治る病気ではありませんよ――」
 と黄色い顔に歴々と冷笑を泛べて、ひどく私を軽蔑するのであつた。そして、「気狂ひのくせにバタが欲しいなんて斯んな僭越な奴があるでせうか、ねえ貴方……」ひどく馴れ馴れしく斯う言ひ乍ら、遂ひ私をも同腹一味の徒党にして頻りに辰夫の悪口を私と
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