共に語りたいとするのであつた。彼奴《あいつ》は発狂の当初|妾《わたし》を殺さうとしたとか、今度彼奴が娑婆へ出たら本当にしめ殺されて了ふ等とゾッと顫え乍ら、又急に私の顔を眺めてニヤ/\と冷笑を送つたりする。私は仕方がないので、「どうもお気の毒です」とか、「ごもつともです」と至極丁重にお辞儀をして、その日はそれなり帰るのである。私は斯んなに頼りない男であつた。
 私は辰夫に、昨日は多忙で君の家へ廻れなかつたと佯《いつわ》りを言はねばならなかつた。併し毎日頼まれるので、私も根気よく毎日辰夫の母を訪ねた。すると此の女《ひと》は私の根気に癇癪を起して日毎に私への軽蔑を深め、若し私が、「いや、辰夫は明らかに全快してゐます」等と言ふならば、忽ちギョッと怯えた様をして、私も亦辰夫と共に精神に異常があるのだと頻りに疑ぐり出すのであつた。それにも拘らず私は随分根気よく彼処へも通つた。そして私は当然拒絶を承知した諦めのいゝ集金人のやうに、その頃私は仏教を勉強する堕落生であつたが、さながら魚のやうに機嫌よく街を泳いで埃を浴びてゐた。そして私は先づ門口に立つて店にゐる老婦人を見出すと、極めて愛想よくニヤ/\し乍ら、其の日の天候に就て腹蔵ない意見を述べてゐるのであつた。そして老婆の悪口と冷笑を一くさり見聞すると、私は丁寧に一礼して、心愉しい人のやうに帰りはぢめるのであつた。
 斯の状態が右と左に長く並行して、併し病院の一時間は愈々堪え難いものになつた。私達の神経は次第にもつれはぢめてゐた。
 辰夫は何事にも諦めよく深く自らを卑下してゐたが、自分の家族に就てだけは温い愛を信頼してゐた。いや、彼は決してそれを信じてはゐないのだが、信じやうとせずには此の冷い檻の中に生き続ける力が湧かないのである。彼は子供の頃から冷酷な家庭に育つたのだが、それでも矢張り家族の温情を空想せずには檻の中で生きられないものらしい。
 辰夫は初め此の空想が私にさとられることを甚だ怖れてゐた。ところが私は毎日その母を訪れない振りをして極めて下手に母の冷たさを誤魔化してゐるものだから、やがて辰夫は其れを見破り、唯一の慰めが裏切られたことに致命的な苦痛を感ぜずにはゐられなかつた。彼ほどの冷静なかつ聡明な人にして全く可笑しな話であるが、そこで彼は自分の恥づべき空想が私に見破られたことを焦慮して、今度は頻りに自分の母は何物にも増して自分を愛してゐることを私に信じさせ、説服しやうとするのであつた。檻の中の辰夫の望みが如何に謙虚なものであつたか、今私は胆に銘じて記憶してゐる。それにも拘らず、その頃私は愚かであつた。(今も――)
 扨《さ》て辰夫は次第に苛々して、遂には私が如何にも辰夫の母親を誤解し、母親は辰夫を愛してゐるにも拘らず私は愚鈍で其れを見破るよすがもない、といふ意味を仄めかさうとするのであつた。莫迦な私は逆上して、
「君は実に物の分らない妄想溺惑家だ。今は白状するが、僕は毎日君のお母さんに会つてゐる。併し君の母なる人は凡そ頑迷で、冷淡で、又甚だヒステリイで……」
 斯んな風に激しく私は興奮して、もはや我無者羅に喚くやうになるのであつた。すると辰夫は粛然と襟を正して深く項垂れ、歴々と羞ぢらう色を見せて悲しげに目を伏せてしまふのだ。私は自分の愚かさに胸を突かれる思ひをして、又もや夢中になつてしまひ、
「併し併し親の心は神秘だから、他人の僕に通じないものが必ずあるに極つてゐる。僕は浅薄で深さの分らない人間だから、君の母を誤解してゐるに違ひない……」
 斯うして益々混乱する私は自卑に堪まりかねて、次のやうに途方もない脈絡もない囈語を喚いてしまつたりした。
「僕は本当のことを君に言ふが、僕は嘗て君に友情を抱いたことは一度もない。此処へ来るのも自分の打算から来るのであつて――」
 そして私は、実は私は受付の看護婦に惚れてゐるから此処へ足繁く通ふのだと、之は確かに出鱈目であることを保証するが、斯様なことを喚いたりしたのであつた。すると辰夫は此等私の無礼極まる言説にも寧ろ益々粛然として、深い自卑と羞らう色を表はして項垂れてしまふから、私は取りつく島もない自卑のあまり前後不覚に狼狽する次第であつた。
「あゝ! 俺は実に悪者だ……」
 私が斯様に断末魔のやうな呻きを最後に発すると、辰夫は漸く私の腕をしたゝかに握つて泪を泛べ。
「本当に君に済まない。君のやうな善良な友達を斯んなにも苦るしめて、僕は怎《ど》うしていゝか分らない……」
 その詠歎を終りとして、私達は暗然と項垂れ合ひ、扨て私は窓の外へ目を逸らして、今にも空気にならうとする私の身体を感じつゞけてゐた。
 この病院の面会室は本来は講堂と称せられる所で、舞台なぞも設けられた二百畳もある程の板敷の部屋であつた。その広々とした部屋の隅に、まるで冷めたさに吹き寄
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング