・マリヤもすでに死に絶え、因習の外部に目覚めた童女の叡智はもはやなかつた。マリヤの理想を捨てるとき一人の女性を捨てたのだ。家附きの油虫か奴隷のやうな、古い日本のひとりの女に還つてゐた。婚家に伝はる仏教に帰依し、諦らめを知り、覚めるがゆえに夢を悪《にく》み、傷つくがために不羈独立の志操をきらひ、市井の因循細心な安危の世界に感動した。そのほのぐらい生活が、卓一の最初の心に二重の暈で逃げたい心を植えてゐた。
 十二三の頃だつた。ふだん使はぬ部屋のひとつで不思議な本を発見した。手の湯気のつく皮のの表紙の大型の洋書であつた。一冊づつめくつてみると、髯のある品格の高い一人の異人が木立の深い風景め中で銃身の長いピストルを空へ向けて構えてゐた。別の頁に、襞の深いスカートをひいた綺麗な女が椅子にくづれて泣いてゐた。決闘とそれにからまる悲しいことや戦慄が少年の胸にひびいてきた。一字も読めない文字の中から、綺麗な異人を泣かすほどの悲しさが、妖しいまでの艶めかしさでむらだち流れてくるのであつた。本と本の間から模様の古風なトランプがでてきた。西洋の栞があつた。誰の使つた物だらうか? 打ち開けてはならぬ秘密の深さ
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