母を殺した少年
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)花車《きやしや》な

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 雪国生れの人々は気候のために故郷を呪ひがちであつた。いつもいつも灰色の空。太陽は生命と希望の象徴であるが、象徴を失ふことが現実に希望と生命を去勢する無力さを、彼等は知らねばならなかつた。ためらひや要心や気憶れや、人間関係の弱さだけで沢山だつた。そのうへまるで植物のやうに自然界の弱さまで思ひ知らねばならないのだ。雪国の叡智を育てるものは疑ひ深い要心と抜け道のないためらひだつた。味方すら信じきれない細心と孤立者の諦らめが、彼等に「知らねばならぬ」ことを教へるのだ。そして彼等は知り得ることを知るのであつた。然し知識が宿命的に知り得ぬことがあつたのだ。本能がそれであつた。そして彼等は疑ひ深く考へ深い反面に、不思議なまでに無智な行為者に還元した。
 日本は元来雨量が多い。太平洋沿岸すら必ずしも晴天には恵まれないが、日本海沿岸に比べたなら楽園だつた。北国では、少年の夢がすでに故郷を脱走する。そして不可能への憧れが彼等の中に育つのだ。それは不可能を可能ならしむるための荘厳な人間苦には結晶せずに、現実すら不可能に粉飾し、不可能を憧れながら諦らめる二重の欺瞞を愉しむ詩人にするのであつた。太陽をもとめて伊太利へ馬車を走らせるエルテルの詩人を、彼等は最も救ひがたい本能の姿に於てはぐくんでゐた。
 新潟市は旧幕時代は天領だつた。町の血管に武人気質を持たなかつた。生れながらの港町で、生きた貨物と遊び女と浮かない心の町人達が住んでゐた。稼ぐこと遊ぶこと、それに絡まる厭世感とを恐らく大阪が代表する。大阪のあらゆる部分のあくどさを風土的にぬいたものが新潟であつた。新潟はそもそも風土的に気弱だつた。その町の町人達はなんらの知識を賭けることなく虚無的だつた。その虚無感には苦悩を重ねた行路の跡も秘められてゐない。虚無感が町の鼻唄にすぎないのだ。そして町の性格をその鼻唄が決定してゐた。
 徳川幕府三百年の鎖国政策が解かれ、文明開化の奔流を導くための五つの貿易港が定められた。神奈川・兵庫・長崎・函館そして新潟の五港だつた。安政年間のことであつた。港内測量のため異国の火輪船がはじめて新潟港外に悪魔的な花車《きやしや》な姿を現したとき、この虚無的な港市には未曾有の異変に当るべき武人も武器も持たなかつた。警備の武士は新発田《しばた》藩から駈けつけたが、街角を右往左往の警備の武士を見ることに怯えきつた町民達は、白昼から窓を閉して暗らがりの中にひれふしてゐた。列国の領事館が立ちはじめた。因循怯懦の厭世港は黎明日本に皮肉な一役をつとめたのだ。然し結果は恰《あたか》も町の性格どほりにあつけなかつた。港は信濃川の河口にあつた。日本海の激浪を避けることには便利であつたが、屈託のない大河の運ぶ土砂のために港内は浅瀬のひろがるばかりであるし、火輪船の船体は日増しにふとる一方だつた。列国は新潟港の将来に見切りをつけねばならなかつた。一番諦らめの悪い領事さへ、明治十年が訪れた時に、もはやこの土地を引上げてゐた。ひところの異国文化は町の記憶から消えてしまつた。

 目白の日本女子大学の前身はこの因循な厭世港市にひらかれた女塾だつた。抑制と飛躍的な情熱が同じひとつのものであるのを、雪国のつつしみ深い娘達が証明した。彼女等はマタイ伝を英文に読み、ラムの諧謔を極めて下手に理解するのが誇りであつた。成瀬校主は女生を率ひて東上した。女子最高学府の多くの古い卒業生に因循な厭世港市の娘達を見出す謎はかういふ理由によるのであつた。
 彼女等の一人に田巻いちがゐたのであつた。いちの理想は真善美と童貞マリヤの純潔を汚さぬ生涯にあつたのだ。いちは成瀬先生を追ふて東都に遊学したかつた。いちの父は進歩的な老人だつたが、女子の遊学を認めなかつた。娘に禁足を命じたばかりか、男の愛と家庭を与へて並の女に還元するのが無難な策と考へたのだ。婿の候補者は選定され、話はいちに伝へられた。東京へ行けないための悲しさから、毎日を一人の部屋で泣き暮してゐたいちにとつて、話はあまりに残酷だつた。いちは父と言ひ争つた。口惜しまぎれに外へでた。夜だつた。親しい友は希望に燃えて故郷を去り、残されたいちはひとりだつた。語らう友にも憩ふ部屋にも目当てがなかつた。突然いちは冷めたく決意をかためてゐた。生涯を神に献げて敬虔な祈りの日々を送らう、と。そのほかに道はなかつた。すると恰もすでに救ひを受けたやうな安堵にみちた清々しさが流れてきた。いちはかねて教へを受けた宣教師ブレルスフォードを訪れた。神を道具に使ふ暗さも、自らを憐れむ惨めさもいちの意識を汚さなか
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