つたが、はりつめた決意を語るうちに自然に眩暈が起きてゐた。語りながら、幼年の最初のねむりを知るもののやうな、意識の次第に喪失する妖しい過程を、むしろ安らかなものに感じた。
 文明開化を謳歌するそのかみの一通人も、感情生活の機微に於ては孔孟を遠距《とおざ》かること五十歩の百歩であつた。いちの父は娘の犯した行動の女らしからぬ劇しさを、憐れむよりも憎もうとした。父は勘当を宣告したが、それはいちを殉教者の狂熱へまで駆り立てたにすぎなかつた。悲しさを、神経的なあぶなさで、いちは持ちこたへてゐたのであつた。
 父と娘の間に立つて奔走したのは、いちの兄左門であつた。左門はそのとき二十二だつた。彼は土地の英学校に英学をおさめ、ゆくゆくは東京にでて西欧思想の深処を究める志望をいだいてゐたのであつた。然し父は志望遠大なる人の生涯の不平と不幸を息子のために希はなかつた。父は息子の場合にも結婚の緩和作用を利用した。左門は十七歳のとき強制的な結婚に服した。もはや二児の父だつた。然し左門の夢と不平はむしろ深まるばかりであつた。不平の左門は寝坊で無性《ぶしよう》で東洋的な虚無家であつた。本来無東西的な陰性なオプチミスムを愛用し、積極的な情熱の虚偽を蔑みながら愛してもゐた。森春涛の機関誌に派手な感慨を羅列した七言絶句を投稿して、わづかに鬱憤を晴らしたりした。
 若い虚無家の不得要領の奔走が有耶無耶《うやむや》のために奏功した。いちの婚約は解消され、いちも洗礼を断念し、勘当を解かれて生家へ帰つた。どさくさが鳧《けり》をつけた翌日だつた。虚無家は大金を懐中に秘め、なにげない散歩の態でぶらりと外へ出掛けたまま、東京へ向けて出奔した。彼は早稲田へ入学した。尾崎紅葉が同級だつた。父はどさくさに疲れ果て、この出奔に公許を与へねばならなかつたが、左門は人為の卑小・思想の虚しさに絶望したと至極大きな呟きを洩して、卒業の時も待たずに飄然故郷へ帰つてきた。
 宣教師ブレルスフォードは新潟市中大畑の私宅の一部に英学塾をひらいてゐた。いちは勘当を許されてのち、ブレルスフォードの塾に通ひ、まもなく助教師に抜擢された。二十五を迎へるまで、いちの理想と神経に最大限の忍耐を重ねた父も、放任の最後の時がきたことを見極めなければならなかつた。折から青木雄策がいちを配偶に懇望した。青木は西欧の医学を修め、帰朝して開業したての医師だつた。左門の親しい友であつた。童貞マリヤの理想のためにいちは結婚を憎んでゐたが、もはや我儘はとほらなかつた。いちは泣く泣く結婚した。鹿鳴館の絢爛な夢が恰もそのころ余燼を絶たうとしてゐたやうに、いちの半生の神秘な夢も終りを告げたのであつた。
 いちは青木雄策に嫁して四児をあげた。かしらの三児は女子であつたが、最後の一人が男子であつた。青木卓一は厭世港市の性格のほかに、母親の傷つきやすい夢の狂躁をうけて生れた。明治三十五年(西暦一九〇二年)だつた。
 卓一が四歳の時であつた。父雄策は狂死した。発狂は死の前年のことだつた。後年卓一は父の発狂の真相を突きとめたいと思つたが、遺伝関係の手係りもなく、異国時代のジフィリスもその確証があがらなかつた。人々のせはしなく立騒ぐ黄昏れどきに家を脱けいで、野犬のやうに路傍に食をあさりながら彷徨《さまよ》つたあげく、とある漁村の砂丘の襞に行倒れた彼の姿が見出されたときは、もはや瀕死の状態であつた。卓一の記憶に父はなかつた。隆盛だつた病院もなかつた。彼が物心ついたときには、海へ通ふ砂径沿ひの緑陰のしじまの深い閑かな借家に一家は住んでゐたのであつた。いちの中にはサンタ・マリヤもすでに死に絶え、因習の外部に目覚めた童女の叡智はもはやなかつた。マリヤの理想を捨てるとき一人の女性を捨てたのだ。家附きの油虫か奴隷のやうな、古い日本のひとりの女に還つてゐた。婚家に伝はる仏教に帰依し、諦らめを知り、覚めるがゆえに夢を悪《にく》み、傷つくがために不羈独立の志操をきらひ、市井の因循細心な安危の世界に感動した。そのほのぐらい生活が、卓一の最初の心に二重の暈で逃げたい心を植えてゐた。
 十二三の頃だつた。ふだん使はぬ部屋のひとつで不思議な本を発見した。手の湯気のつく皮のの表紙の大型の洋書であつた。一冊づつめくつてみると、髯のある品格の高い一人の異人が木立の深い風景め中で銃身の長いピストルを空へ向けて構えてゐた。別の頁に、襞の深いスカートをひいた綺麗な女が椅子にくづれて泣いてゐた。決闘とそれにからまる悲しいことや戦慄が少年の胸にひびいてきた。一字も読めない文字の中から、綺麗な異人を泣かすほどの悲しさが、妖しいまでの艶めかしさでむらだち流れてくるのであつた。本と本の間から模様の古風なトランプがでてきた。西洋の栞があつた。誰の使つた物だらうか? 打ち開けてはならぬ秘密の深さ
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