影が見えるのである。すると夏川はむら/\と心が変つた。心が変つたといつたところで、別段大それた心になつたわけでもない。ヒロシが彼のうしろから階段を上つてきたが、急にふりむいてヒロシの手をつかんだものだ。彼は一人では這入つて行けなくなつたのだ。ヒロシは腕をつかまれて、ビックリしたが、彼の魂胆が分ると顔の色を失つた。歌舞伎の舞台で古典的な女の魂を身につけたヒロシは、知らない人の前へ、いや、知るも知らないもあるものか、人前へ裸の身体をさらすなどとは、できるものではない。早くも気配に危険を察して身を引かうとするのを、それを見ると、夏川は逆上的にむら/\と残酷な意慾がうごいてきた。
 逃がしてなるものかと、とつさに夏川はムンズと組みついたが、ヒロシの痩せて細いこと、たわいもなく腕の中へ吸ひこまれて、あんまり思ひつめて組みついたものだから、あまりのアッケなさとあまりの軽さに拍子抜けがしてハッとしたものだ。そのときヒロシがキャアーッといふ悲鳴をあげた。キャアーッといふ悲鳴などゝ物の本には心やすく書いてあるが、こんな悲鳴を実際に耳にするといふことは一生のうちに幾度もある筈はないので、平和な人々の多くは
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