こんな悲鳴を生涯知らずに終るのが自然であらう。夏川も四十の年までこんな悲鳴をきいたことはなかつたのである。
「ヒ、ヒ、ヒ、ヒ」
 とヒロシは変な声をもらしたが、人殺しと叫ばうとして叫ぶことができなかつたのか、それとも単なる悲嘆の夢うつゝの嘆声であつたのか、よく分らない。
 そのとき障子がガラリとあいて、母なる人が顔をだした。田舎から汽車にゆられてきた旅行用のモンペ姿で、白髪の姿をあらはしたのである。
 夏川ははだかのヒロシを軽々と担ぐやうに抱きあげて、母の姿に面した。彼の顔は泣き顔だか、笑ひ顔だか、多分誰にも見当のつかないだらう表情がこはゞりついてゐたのである。然し彼は威勢よく、
「ヤア、いらつしやい」
 と言つた。
 するとそれを合図のやうに、再びヒロシがキャアーッといふはりさける悲鳴をあげたものだ。そして、両足を勢《せい》いつぱいバタバタふつた。運わるくその片足の膝小僧が夏川の睾丸をしたゝか蹴りつけたから、たまらない。夏川はヒロシを担いだままフラ/\/\と坐る姿にくづれて、劇痛のため平伏してしまつたのである。痛さも痛いが、これはちやうど都合のよろしい姿勢であると、ついでに心の中で久
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