も、言ひくるめることもでき、会はない前よりも却つて事態を好転させる見込みすら有り得るのである。
 心の中に住む母はさうはいかない。苦しみにつけ、悲しみにつけ、自らが己れを責める切なさの底で見る母は、だますことも、ごまかすこともできない母だ。母はそれだけでいゝではないか。夜汽車に喘いで辿りついた白髪頭の腰の曲つた老婆の姿をなんで見なければならないのか。その一徹な怒る心や叱る声をなんできかねばならぬのか。それを手もなく、だまして、言ひくるめて、砂をかむやうな不快な思ひをなぜしなければならぬのか。
 だが、生来小心者の夏川は、別して母に就ては小心だつた。母に会ふその一瞬時が何よりも辛いやうに思はれる。四十の彼の心の中に今なほなまなましくうづく苦痛は七ツの彼とすこしも違はぬ。胸にあふれでる想念は子供の頃母に叱られたその怖しさばかり、七ツの恐怖をどうすることもできないのである。
「ヒロさん。君はおふくろが生きてゐるのかい」
「いゝえ。あたくしは木の股から生れましたのです」
 ヒロシは冷然と言つた。
 その晩、夏川は例の親友の蒲鉾小屋のオデン屋を叩いて徹底的に飲んだものだ。尤も彼が徹底的に飲むのは
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