の出来心で取返しのつかないことになるからね」
 夏川はその言葉も忘れてはゐなかつた。だが、堕ちかけた魂は所詮堕ちきるところまで行きつかざるを得なかつたであらう。彼の魂はとつくの昔にそこまで堕ちてゐたのであるが、外形だけが宙ぶらりんにとまつてゐたといふだけで、さうなることが自然であつた。夏川は驚きも悔いもなかつたものだ。たゞ、行きついてみて、そのあるがまゝのあさましさを納得させられただけのことだ。ひからびて黒ずんだ枯木のやうな肉体と、そこに棲む、もはや夢といふもののない亡者のやうな執念だけを見たものだ。
 夏川はよく眠つた。生活自体が睡眠のやうなものだと彼はつく/″\思つたが、要するにこの現実を夢と思へばいゝではないかと彼は考へてしまつたものだ。夢といふ奴は見たくないと思つても、厭な夢を見せられる。いくら見たいと思つても良い夢ばかりは見られない。その夢と同じことで、この現実も自分の意志ではどうにもならず、だから要するに、この現実も夢だと思つてしまふにかぎる。夏川はさう考へた。俺は知らない、俺は夢を見てゐるのだ、と。
 夏川がおそく帰つてきて寝床へもぐりこむ。するとその寝床には枯れたやうな
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