説かうといふお前さんが怖しい、と。
 夏川は自分の四囲の環境やその習性が、どこか大事な心棒が外れてゐるといふことを考へなければならなかつた。みんながあまり自分の「花」にまかせすぎてゐるのだ、と思つた。娘は花の如く妖艶であり、その母は虫の如くにうごめいてゐた。けれども二つは別物ではなく、娘もやがて虫となる。花の姿の娘に、花の心がないからだ。だから、虫にも、花の心が有り得ない。自分の心とても同じことだと考へて、夏川はうんざりした。
 そのとき虫が困りきつた顔をそむけて、もう十年若ければねえ……ふと呟いたものである。夏川が宿酔《ふつかよい》の頭に先づ歴々《ありあり》と思ひだしたのがその呟きで、もう十年若ければねえ……アヽ、もう遅い。女はさうつけたして呟いたやうな気がする。それは夏川の幻覚であらうか。否、幻覚ではなかつた。アヽ、もう遅い、然し、女はさう呟いたのではない。もう十年若ければ……あゝ、齢《とし》だ……たしかにさう呟いたのであつた。
 その呟きは虫のやうに生きてゐた。アヽ、齢だ……何といふ虫だらう、と夏川は思つた。女自体が虫であるやうに、言葉自体が虫であつた。そこには魂の遊びがなかつた
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