説かうといふお前さんが怖しい、と。
夏川は自分の四囲の環境やその習性が、どこか大事な心棒が外れてゐるといふことを考へなければならなかつた。みんながあまり自分の「花」にまかせすぎてゐるのだ、と思つた。娘は花の如く妖艶であり、その母は虫の如くにうごめいてゐた。けれども二つは別物ではなく、娘もやがて虫となる。花の姿の娘に、花の心がないからだ。だから、虫にも、花の心が有り得ない。自分の心とても同じことだと考へて、夏川はうんざりした。
そのとき虫が困りきつた顔をそむけて、もう十年若ければねえ……ふと呟いたものである。夏川が宿酔《ふつかよい》の頭に先づ歴々《ありあり》と思ひだしたのがその呟きで、もう十年若ければねえ……アヽ、もう遅い。女はさうつけたして呟いたやうな気がする。それは夏川の幻覚であらうか。否、幻覚ではなかつた。アヽ、もう遅い、然し、女はさう呟いたのではない。もう十年若ければ……あゝ、齢《とし》だ……たしかにさう呟いたのであつた。
その呟きは虫のやうに生きてゐた。アヽ、齢だ……何といふ虫だらう、と夏川は思つた。女自体が虫であるやうに、言葉自体が虫であつた。そこには魂の遊びがなかつた。その魂には一と刷毛《はけ》の化粧もほどこされてはゐなかつた。だが、俺自身を見るがいゝ。俺も亦さうなのだらうと考へると、夏川は何よりもわが身が切なかつた。
三匹の虫のやうな生活にともかく夏川が堪へられたのは、ヒロシといふ虫が趣きが変つてゐたせゐだらう。変態の男といふものは、女の魅力にふりむくことがないものだ。ふりむくことが有るとすればたゞ嫉妬からで、自分は本来女であると牢固として思ひこんでゐるやうである。彼は歌舞伎の女形と云はずに、女優と云つた。えゝ、あたくしは女優でした、と云ふのである。彼は鬘《かつら》や女の衣裳をつけたがりはしなかつた。男姿のまゝ、女であると信じきつてゐるやうだつた。その顔の本来の美しさはオコノミ焼の娘も遠く及びはしないであらう。何よりも潤ひの深い翳があつた。その顔は幼なかつたが、愁ひがあつた。彼の胸にはともかく一つの魂が奇妙な姿で住んでゐたと云ふことができる。その魂はこの現世にはもはや実在しないものだ。歌舞伎の舞台の上にだけ実在してゐる魂で、主のために忠をつくし、情のために義をつくし、あらゆる痛苦と汚辱を忍んで胸の純潔をまもりぬく焔のやうな魂であつた。
オコノミ焼の主婦は近頃はもう慎みがない。別して娘が現れると特別で、娘とヒロシ二人ならべて、淫売さんとか、闇の姫君とか冷やかしはじめる。蛇のやうな意地の悪い執念で、一度は必ずそれを言はぬと肚の虫がをさまらぬといふ様子である。石の上へねるのかえとか、ずいぶん毎日新聞紙がいることだらうねとか、ヒロシに向つて、お前さんは何かえ膝にワラヂでもはかせなきや石にスリむけやしないかなどゝ聞くに堪へないことを言ふ。娘は馬鹿にしたやうな笑ひを浮べてゐるだけだ。その簡単な方法で自分が勝つてゐることを自覚してゐるからである。情慾に燃え狂つてゐる御本人は母自身なのだ。娘が夜毎にねるといふその石にすら嫉妬してゐるではないか。
然し、ヒロシの応待には奇妙な風にトンチンカンな気品があつた。彼も返事をしなかつた。たゞ背を向けて悄然と坐つてゐる。きくに堪えないといふ風でもあり、恩ある人の恥さらしの狂態を悲しむものゝやうでもある。彼はかゝる下品卑猥な言辞に対して、かりそめにも笑ひの如きものによつて報いることを知らないのである。彼はともかくこの現実から遊離した一つの品格の中に棲んでゐた。彼は事実に於て淫売である。石の上に寝もしたらうし、膝小僧も時にはすりむいたであらう。然し、ヒロシがその胸にだきしめてゐる品格の灯はその卑小なる現身《うつしみ》と交錯せず、彼はたぶんその現身の卑しさを自覚してはゐないのだ。彼は胸の灯をだきしめて、ともかく思ひつめて生きてゐる。そして彼は下品を憎み、卑猥なる言辞を悲しむが、その言辞を放つ人自体を憎むことも悲しむこともないやうだつた。彼はこの現実から遊離して、まさしく品格の灯の中に棲み、切に下品なるものを憎むが、あらゆる人を常に許してゐるのである。それは畸形な道化者の姿であつたが、又、何人がその品格を笑ひ得ようか。
然し、夏川は、ねむれぬ夜や、起上る気力とてもない朝の寝床の中なぞで、うそ寒い笑ひの中でヒロシの妙にトンチンカンな気品を思ひ描いてみたものだ。笑ひを噛み殺さずにゐられぬやうな気持にもなるが、又、奇妙に切ない気持になつた。ともかく五十女の情慾と変態男の執念が唐紙の一つ向ふで妙チキリンな伊達ひきの火花をちらしてゐるおかげで、底なしの泥沼の一足手前でふみとゞまつてゐられる。さういふ自分は果して何者だらうかと考へる。彼はよく子供の頃の自分を考へた。小学校の頃は組で誰よりも小心者で
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