、隣の子供の悪事にも自分が叱られるやうにいつもビクビクしてゐたものだ。恐らく誰からもその存在を気付かれぬやうな片隅の、又物蔭の子供であつた。中学の頃から急にムク/\ふとりだしてスポーツが巧くなつたり、力持ちになつたり、いつ頃からか人前へ出しやばつて生きることにも馴れたものだが、かうしてぎり/\のところへくると、オド/\した物蔭の小学生が偽らぬ自分の姿だと思ひだされてしまふのである。
 彼は小さい時から、あくどいもの、どぎついものにはついて行けないたちであつた。五十女の情慾や変態男の執念などは、まともにそれを見つめることもできないやうな気持なのだが、そして、淪落の息苦しさ陰鬱さに締めつけられる思ひであつたが、又、不思議にだらしなく全身のとろけるやうな憩ひを覚えるのはなぜだらう。
 あるとき酔つ払つた夏川が梯子酒といふ奴で娘のゐる屋台のオデン屋へ現れたとき、娘が彼に言つたものだ。
「ねえ、オヂサン。うちのお母さんと関係しちやいやよ」
 夏川は奇妙に沁々《しみじみ》とその言葉を味はつたものである。なべて世の母はその娘の処女と純潔を神の如くに祈り希ふものであるが、老いたる母はその淫売の娘によつて、貞操と純潔を祈り希はれるものであらうか。淫売たる彼女が処女のころ、その母が彼女に就てその純潔を更に激しく祈りつゞけたであらうことを、知るや如何に。因果はめぐる何とかと云ふ通り、さういふことは知つても知らなくても、どうでもいゝことであるらしい。虫の如くに可憐である、といふほかに、いつたい何物があるのだらうか。
「お母さんに男があつちやアいけないのかい」
「だつて、をかしいわよ」
「何が?」
「ねえ、オヂサン」
 そのとき、娘の笑顔は冴え/\と明るかつた。
「闇屋なんか、よしなさいな。みつともないわよ。オヂサンぐらゐの年配の人は、そんなこと、するものぢやないわよ」
 彼も亦、彼女の老いたる母の如くに憐まれてゐるらしい。彼はこのときほど自らの年齢を鋭く突き向けられたことはない。娘はそれを自覚してはゐないのだ。彼女には理知の思想はないのである。たゞ十八といふ年齢の動物的な思想が語つてゐるだけだ。大胆不敵な自信であつた。たゞ本能の自信である。十八といふ年齢が人生の女王であり、そして、それ故、彼女は無自覚な、最も傍若無人な女王であつた。夏川は四十のこの年まで、アヽ齢だ……といふ嗟嘆を自ら覚えたことはない。然し、この時ばかりは理窟ではない、年齢が年齢に打ちひしがれた強烈無慙な一撃に思はず世の無常、身辺に立つ秋風の冷めたさを悟つたものだ。そして十八の娼婦の妖艶な肢体を見直して、まさしくそこに、この世では年齢自体が女王で有り得る厳たる事実を認めざるを得なかつた。夏川は今もなほ自ら淪落の沼底に沈湎《ちんめん》するが故に自らのゐる場所を青春と信じてゐた。青春とは遊ぶことだと思つてゐたのだ。否、々、々。青春とは、かゝるくぎりもないだゞら遊びと本質的に意味が違ふ。樹々の花さく季節の如く、年齢の時期であり、安易なる理性の外に、冷厳な自然の意志があることを悟らざるを得なかつた。
 然し、青春の女王は彼に闇屋をよせと云ふ。オヂサンぐらゐの年配ではみつともないと云ふのだが、傲然と、かゝるぬきさしならぬアイクチを突きつけながら、一ときれの理知も持たなかつた。
「だつて、食へなきや、仕方がないぢやないか」
 夏川がかう言ふと、女は笑ひだして、
「アヽ、さうか」
 と言つたものだ。まことに軽率きはまる唯美家であつたが、それだけに、夏川は失はれた年齢のぎつしりとつまつた重量を厭といふほど意識せずにはゐられなかつたものである。青春再び来らず、といふ。青春とは、それ自らかくも盲目的に充実し、思惟自体が盲目的に妖艶なものだ。
 そして、俺は、と、夏川は自分をふりかへらずにゐられない。十八の娘は、闇の女でも、花があつた。然し、夏川には、花がない。俺の住むところは、どこなのだらう。冬の枯野なのだらうか、沙漠であらうか。何よりも、俺自身は何者であらうか。何のために生きてゐるのであらうか。
 あるとき、夏川は臆面もなく娘を口説いたものだ。これから泊りに行かう、といふわけだ。娘はクスリと笑つて、
「よしてよ。もう、そんなこと、言ふものぢやアないわ」
「だつて、どうせ誰かと泊りに行くのだらう」
「でも、オヂサンとは、だめよ。もう、そんなこと、言つちやいやよ」
「なぜ、だめなんだ」
「なぜでも」
 娘は笑つてゐる。それも亦、まぶしいほど爽やかな笑ひであつた。
 そのときも、然し、娘はやがてまじめな顔になつて、かうきびしく附けたしたものだ。
「オヂサン。お母さんと関係しちやいやよ」
「だからさ。君と泊りに行かうといふのぢやないか」
 ところが夏川はその言葉を言ひ終らぬうちに棒を飲みこんだやうになつてしまつ
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