女がねて待ちかまへてゐる。さもなければ、彼が眠らうとするころ、手さぐるやうにして隣室の女が這ひこんでくるのである。夢には角がないから、彼は夢を憎みはしない。たゞ、夢を見てうなされるより、なるべく夢を見ずに眠りこけたいと考へる。事実彼はねむいのだ。いつでも眠い。そして彼は近頃では、部屋の中では、たゞ眠ることしか考へなくなつてゐた。そして、眠るといふ喜びのために、目ざめてゐるときの色々の煩しさや薄汚さを気にもかけずにゐられるやうな気持であつた。
 夏川は寝床の中の女にはまだ我慢ができた。第一、くらやみだ。何も見えないし、そして喋らずにもゐられるからだ。苦しいのはヒロシと三人食事の時やお茶を飲んだりする時で、このときの婆アさんはハッキリ見えるばかりではない。情慾のみたされてゐる自らをさもさも得意に、ヒロシをからかひ、苦しめはじめる。今夜は休業? と言つてみたり、たまには石の上にも寝なきや一人者は身体がもたないだらうにね、などゝ言つたりする。富める者が富める如くに、才ある者が才ある如くに、自らの立場をひけらかすに比べて、肉慾のみたされたる者がたゞその肉慾のみたされたる故に自らひけらかすといふことは、理知のよく正視に堪え得るものではない。しかもそのみたされたる肉慾の片われが汝自らであるときては、その寂寞、その虚しさ、消え得るならば消え失せて風となつて走りたい。すべてはあるがまゝ夢である故、彼はつとめて女を憎み呪はぬやうにしてゐるのだが、ヒロシの切なさを我身の切なさの如くに考へることが多かつた。
 夏川は眠るまのわづかばかりの物思ひにも、同じ寝床に足腰のふれてゐる女に就て思ふよりも、ヒロシに就て思ふことが多かつた。ヒロシは今、何を考へてゐるだらうか、と。ヒロシは悲しんでゐるだらう。なぜヒロシは悲しむか。彼は人を憎むことがないからである。彼はたゞ、我《われ》人《ひと》ともに、その運命を悲しむ。彼の胸に燃えてゐるその火の如くに高貴ならざるが故にである。ヒロシはよく眠りうるであらうか、と。

          ★

「ナアさん。いつそ、あたくしにまかせていたゞけませんか」
「まかせるつて、何をさ」
「あたくし、心当りの家がありますのよ。いゝえ、懇意な家ですから至つて気のおけないところなのです。荷物はあとで、あたくしが運びますから」
「まア差し当つて、そこまで考へることはないぢやない
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