た。娘の顔色が変つたからだ。今にも泣くのかと夏川は思つた。然し、さすがに花柳地に育つた娘で、さうだらしなく涙を見せるやうなことはしない。唇をかみしめて俯向いたが、昔風に言へば、肩が泣いてゐたとでも云ふのであらう。春を売るわが身のあさましさを知る故に、その母のみだらな情慾を憎むのであらうか。それとも、聖なる母を祈ることは娘の本能なのであらうか。
かほど切なる娘の祈りにもかゝはらず、夏川はたうとうその母と情交を結ぶやうになつてしまつた。
封鎖直前、あぶく銭の余りがあつたので、蒲鉾小屋のオデン屋をもたせてやつた男があつた。この男は戦争前から屋台のオデンが商売なのだが、田舎に疎開してゐたために立ちおくれて、闇市で魚屋の手伝ひなどをやつてゐたのを、夏川が知り合つて助けてやつたのだ。夏川よりも三ツ四ツ年上の年恰好だが、これが今では夏川の親友で、この男が常々夏川にかう言つてゐたものである。
「ナアさん。いくら酔つ払つても、あの婆アさんにだけは手をだしちやアいけないよ。あの年頃の女は先に男のできる当もないから気違ひのやうに絡みついて離れられなくなるものだ。私がそれで苦い経験があるのだよ。たつた一夜の出来心で取返しのつかないことになるからね」
夏川はその言葉も忘れてはゐなかつた。だが、堕ちかけた魂は所詮堕ちきるところまで行きつかざるを得なかつたであらう。彼の魂はとつくの昔にそこまで堕ちてゐたのであるが、外形だけが宙ぶらりんにとまつてゐたといふだけで、さうなることが自然であつた。夏川は驚きも悔いもなかつたものだ。たゞ、行きついてみて、そのあるがまゝのあさましさを納得させられただけのことだ。ひからびて黒ずんだ枯木のやうな肉体と、そこに棲む、もはや夢といふもののない亡者のやうな執念だけを見たものだ。
夏川はよく眠つた。生活自体が睡眠のやうなものだと彼はつく/″\思つたが、要するにこの現実を夢と思へばいゝではないかと彼は考へてしまつたものだ。夢といふ奴は見たくないと思つても、厭な夢を見せられる。いくら見たいと思つても良い夢ばかりは見られない。その夢と同じことで、この現実も自分の意志ではどうにもならず、だから要するに、この現実も夢だと思つてしまふにかぎる。夏川はさう考へた。俺は知らない、俺は夢を見てゐるのだ、と。
夏川がおそく帰つてきて寝床へもぐりこむ。するとその寝床には枯れたやうな
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