きざむなぞといろいろの例はあったが、この部落にはもともと人の名も人の歴史もないのである。しかし彼は自分の名を残さなければならないとひそかに思い決するところがあった。
 彼はすでにシイタケその他のことに失敗したあとであった。メートル法にも敗れている。一生の事業はみんな敗れて、おのずから名を成す見込みを失っていた。その一生に対しても最後の反抗を試みないわけにいかなかった。人の名とは何ぞや? 彼の所属する宇宙とは全戸数十一戸の部落である。しかしそれもまた宇宙の全てなのだ。その宇宙の一番下の保久呂湯は湯によって残る名があるし、一番上の中平はリンゴ園によって残る名があるかも知れない。彼の家は宇宙のちょうど真ン中へんに位していた。
 中平がリンゴ園で成功して「鉢の木」を唸りはじめてから、この村の先祖の天皇は誰の家であるかということについて、中平と三吉に論争があった。中平は一番高いところに住む自分の先祖が天皇だったと云い、三吉は一番下の自分の先祖が天皇だと主張した。保久呂湯がそもそも部落の起りであり、湯を本にして発展したものだから、一番上で一番湯から離れている中平の先祖は部落の末輩、三下野郎だと云う
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