なぞと号令をかけるものだときいて、兵隊がメートル法では日本は負けると確信して云いふらした。彼とメートル法のサンタンたる戦歴を知る村人ではあったが、彼があまりにも所きらわず日本の敗北を喚きたてるので、みんなの気をわるくさせた。在郷軍人分会へひッたてられてアブラをしぼられたこともあったが、それは彼のメートル法への反抗をかきたてるばかりでムダであった。
しかし予言が的中して祖国が敗北して後は、彼の気勢は人々の予期に反してメッキリ衰えた。三人の子供がそろって戦死したせいだ。彼は終戦三年目に、村の人々がたててくれた三人の子供の墓標をひッこぬいて焼きすててしまった。彼が受けとった遺骨箱の中に遺骨はなかったのだから、無意味な墓にイヤ気がさしたものらしい。
この部落にはお寺もなければ学校もない。そして、むろん墓地もない。子孫につたえる小さな土地以外には人の名も人の歴史もないのである。彼は自分の土地をつたえるべき子孫を失ったから、子孫の代りに自分の名を残そうと考えた。むかしから人々はその名を残すために多くのことをした先例はあった。天皇は大仏や寺をつくり坊主は橋をかけ池をほり武士は戦争し大工は眠り猫をきざむなぞといろいろの例はあったが、この部落にはもともと人の名も人の歴史もないのである。しかし彼は自分の名を残さなければならないとひそかに思い決するところがあった。
彼はすでにシイタケその他のことに失敗したあとであった。メートル法にも敗れている。一生の事業はみんな敗れて、おのずから名を成す見込みを失っていた。その一生に対しても最後の反抗を試みないわけにいかなかった。人の名とは何ぞや? 彼の所属する宇宙とは全戸数十一戸の部落である。しかしそれもまた宇宙の全てなのだ。その宇宙の一番下の保久呂湯は湯によって残る名があるし、一番上の中平はリンゴ園によって残る名があるかも知れない。彼の家は宇宙のちょうど真ン中へんに位していた。
中平がリンゴ園で成功して「鉢の木」を唸りはじめてから、この村の先祖の天皇は誰の家であるかということについて、中平と三吉に論争があった。中平は一番高いところに住む自分の先祖が天皇だったと云い、三吉は一番下の自分の先祖が天皇だと主張した。保久呂湯がそもそも部落の起りであり、湯を本にして発展したものだから、一番上で一番湯から離れている中平の先祖は部落の末輩、三下野郎だと云うのである。
その論争が位置の上下から始まったし、論争してる者が事ごとに敵手たる二名であったから、久作はふと考えた。この部落の天皇は自分の家であったかも知れない。なぜなら十一戸の戸数のうち、上に五戸、下に五戸、自分の家は真ン中だ。こう思いつくとにわかにその気になったから、彼は横からこの論争に参加して自説を唱えたが、彼の主張が一番バカげたものだと部落中の物笑いに終った。もともと保久呂湯によっていくらかは人に知られている部落であるし、現に保久呂湯が部落の中心で、部落のデパートでもあれば集会所でもあるのだから、部落が保久呂湯から起ったときめる方が理窟ぬきに割りきれている。それでこの論争はだいたい三吉の主張が部落の人々の支持を得たようだ。
当時、三吉は保久呂霊薬を売りだして当っていた。家伝霊薬と銘うって千年も前から伝わっているように云いふらしていたが、万事は三吉の方寸からでたもので、草津の湯花から思いついたものであった。保久呂湯も湯花がでる。水の時はでないが、湯にすると、落し口にたまる。部落では湯花と云わずに湯渋と云っているが、この鉱泉は渋の色をしていて、味も渋く、万事渋の表現が適している。三吉はこの湯渋と木炭をすりつぶして、これを酢でねると打身骨折の霊薬と称して売りだした。これが意外に売れて、湯治の客も買って行くが、近在からの註文が少くなかった。部落の人々も用いてみて、よくきくという評判である。そこで久作は怒った。
「家伝とは何事だ。お前の代までなかったものではないか」
「それが商法商才というものだ」
「モウモウとわきたつ草津の湯とちがって、お前の湯は小さいワカシ湯ではないか。一日にせいぜい一握りの湯渋がとれるだけだ。怪しき物をまぜているな」
「効能があれば、よい」
三吉は痩せて小柄で、胃弱のためにいつも蒼ざめ、猫背をまるめている不キゲンな小男であった。何を云うにも不キゲンだった。そしてプイとソッポをむく。それが霊薬で当ててから研究室の博士のようにも商事会社の社長のようにも見立てることができるように思われた。そのために久作は一そう三吉を呪ったが、自分にも何かに見立てることができるような威厳が欲しいと執着するようになったのである。彼の顔には目の下に泣きボクロという大きなホクロがあった。口サガないワラベどもに笑われるだけのホクロであるが、保久呂村の天皇家だからホクロがある
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