は、時々深夜の物思いに、ふと、俺はどうも社楽斎の末裔《まつえい》じゃないかなどと考えて、心細さが身に沁むようになっていた。若い身そらで、悟りをひらこうなどとは、どう考えても思慮ある人間の思想じゃない。第一、辞書だの書物の中に悟りが息を殺して隠れているということは金輪際ないではないか。その昔、猿の大王だの豚の精だのひきつれて、こういう思想で、天竺《てんじく》へお経をとりにでかけた坊主もいたけれども、あそこには生死をかけた旅行があった。按吉ときては、電車にゆられて学校へ行くだけではないか。
第一、印度の哲人達を見るがいい。若い身そらで、悟りをひらこうなどと一念発起した青道心はひとりもいない。どれもこれも、手のつけられない大悪党ばかりである。言語道断な助平ばかりで、まず不惑《ふわく》という年頃までは、女のほかの何事も考えるということがない。仏教第一の大哲学者は後宮へ忍びこんで千人の美女を犯す悲願をたて、あらかた悲願の果てたころに、ようやく殊勝な心を起した。これにつづく更に一人の大哲人は、母親を犯してのちに、ようやく一念発起した。おまけにこの先生ときては、天晴《あっぱれ》悟りをひらいて当代の
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