ある。おまけに、あわよくば八百長クサイところに便乗して一騒ぎたのしめる、というような弥次馬精神も加っているらしい。
こういう便乗型の暴力は理論以前の原始世界で、これに対処し解決を与えるものは理論である。今のはこれであったと公正に判断して、冷静を失した観衆の判断を説服することができるだけの安定した判定の基礎が組織化されていなければならないのである。
ところが競輪の主催者側はそういう組織の完備によって観衆を納得させようとせずに、警官を林立させて、対処しようとする。まったく貸元対賭場荒しの暴力対抗そのままで、近代精神は見られないのである。
賭場は人生の片隅に正常な人生と絶縁されており、好きな奴が勝手に破滅するだけのこと、原始さながらの暴力対抗が行われても吾関せず、ですむかも知れない。しかし、便乗型暴力や暴力対抗というものは、競輪場だけのことではなく、日本全体の風潮でもあるようだ。左右両翼の対立が、理論とは名ばかりで、根は暴力的な対立にすぎない。
下山事件が起ったときに、左翼の報復だという流説につづいて、左翼の犯行と思わせるための右翼の陰謀だという流説の応酬が起った。この流説に便乗して
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