うとすると、ここでも却つてその真実らしさを失ふことになるであらう。
ドストイェフスキーの作品では、多くの動きが、その聯絡が甚だ不鮮明不正確で、多分に分裂的であり、それらの雑多な並立的な事情が極めてディアレクティクマンに累積され、或ひはディアレクティクなモンターヂュを重ねて、甚だしく強烈な真実感をだしてゐる。組織的に組み立てやうとするよりも、むしろ意識的に分裂的散乱的に配合せんとすることを狙つてゐて、いはば彼にあつては、分裂的に配合することが、結果に於て組織的綜合的な総和を生みだすことになつてゐる。さうして徒《いたず》らに組織立てやうとしないために、無理にする聯絡のカラクリがなく、労せずして(実は労してゐるのであらうが、文章に表はれた表面では――)強烈な迫力をもつ真実らしさを我物としてゐる。この手法は私の大いに学びたいと思ふところのものである。
脈絡のない人物や事件を持ち来つて棄石のやうに置きすてて行く、さういふことも意識的に分裂的配分を行ふ際に必要な方法であらうし、探したならば、そのための色々都合のいい、効果的な、面白い手法を見付けだすこともできると思ふ。要するに、事件と事件が各々
前へ
次へ
全11ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング