に述べとほすこともでき、色々とひつかかる左右の問題にも軽く踵をめぐらして応接することができはしないかと思ふのである。
 別な見方からすれば、内容を萎縮せしめる形式が最もいけないのであつて、その逆の形式をもとめるべきであり、私自身はその形式の必要を痛感しつつもはや長く悩まされ通してゐるばかりである。
 第四人称の問題は別として、らしい、とか、何々のやうであつた、やうに見えた、といふ言ひ方は、却々《なかなか》面白い手段ではあるまいか。とかく今日の神経は、断定的であつたり、あくまで組織的であらうとすると直ちに反撥を感じ易く、いはば今日の神経はそれ自らが解決のない無限の錯雑と共にあがきまはつてゐるやうなもので、むしろ曖昧な形に於て示された物に対しては能動的な感受力を起してきて、神経自らが作品の方を真実らしく受けとつてくる、さういふことも考へられると思ふのである。過去に於ては作者も読者も陶酔的であつたらしいが、今日では作者は同時に自らの批評家であることが免れがたい状態で、さういふ作者は作品の制作に当つて、自分と同じ批評家としての読者しか予想できないものである。つまりは今も昔も変りなく、自分の意に
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