自己催眠的な虚偽すら犯してしまふのである。これらの危険を避け、書きたいことを自由に書きのばすために、私に考へられる唯一の手段は、新らたな形式をもとめ、形式の真実らしさによつて逆に内容の発展を自由ならしめやうといふことである。
 四人称を設けることは甚だうまい方法で、この方法によつて確かに前述の自縄自縛がかなりにまぬかれるに違ひない。然しながら私は、日本語に於ける四人称に一つの疑ひを持つものである。
 元来この目的のための四人称は記号の如きもので、肉体を持つとそれは又別の意味のものになる。多少の肉体を具えた四人称は、これは又特別のニュアンスをもつもので、私のここでふれたい問題は完全に肉体を持たない四人称に限られてゐる。
 英語や仏蘭西語や独逸語は主格なしに句をつくることができない。そこで作中の人物でもなく、作家自らでもなく、いはば作品の足をおろした大地からは遊離した不即不離の一点に於て純理的存在をなすところの一談話者兼一批判者(形の上では、つまり narrateur と penseur が一致したやうな体裁である)、一でも多でも全でもあり、同時に形態としては無であるところの第四人称が、外
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