は思へないのである。
 これを先づ小さなところから言へば、先程も述べたやうな、断定的な言ひ方が気になつて仕方がないといふことであるが、これは必ずしも私の神経が断定を下すにも堪えがたいほど病的な衰弱をきたしてゐるから、とばかりは言へないやうである。
 意識内容の歪み、襞、からみ、さういふものは断定の数をどれほど重ねても言ひきれないやうに思はれる。又、私の目指す文学は、それを言ひきることが直接の目的でもないのである。小説の部分々々の文章は、それ自らが停止点、飽和点であるべきでなく、接続点であり、常に止揚の一過程であり、小説の最後に至るまで燃焼をつづけてゐなければならないと思ふ。燃焼しうるものは寧ろ方便的なものであつて、真に言ひたいところのものは不燃性の「あるもの」である。斯様《かよう》なものは我々の知能が意味を利用して暗示しうるにとどまるもので、正確に指摘しやうとすると却つて正体を失ふばかりでなく、真実らしさをも失つてしまふ。
 文章の真実らしさは絶対的なものではなく、時の神経(ほかに適当な言葉が見当らない)に応じて多分に流動的である。この神経を無視して、強ひてする正確さは、その真実の姿を
前へ 次へ
全11ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング