いふ剰余なしのハッキリした理由だけで自殺することの方が却つて稀なことではないだらうか。
 自殺なぞといふ特異な場合を持ちだすまでもなく、日常我々が怒るとか喜ぶとか悲しむといふ平凡な場合に就て考へてみても、単に怒つた、悲しんだ、喜んだ、と書いただけでは片付けきれない複雑な奥行きと広がりがあるやうである。それにも拘らず多くの文学が極めて軽く単に、喜んだ、悲しんだ、叫んだ、と書いただけで済ましてきたのは、その複雑さに気付かなかつたわけではなく、その複雑さは分つてゐても、それに一々|拘泥《こだ》はるほどの重大さを認めなかつたからと見るのが至当であらう。実際のところ、特殊な場合を除いて、これらの一々に拘泥しては大文章が書けないに極つてゐる。
 私は文章の「真実らしさ」といふことに就て、内容の問題も無論あるが、形の上の真実らしさが確立すれば、むしろ内容はそれに応じて配分さるべきものであり、それに応じて組織さるべきものでもあり、かうして形式と結びついて配分されたところから、全然新らたな意味とか、いはば内容の真実らしさも生れてくるのではないかと考へてゐる。如上の私の言ふ形式といふことが、文章上の遊戯と
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