自己催眠的な虚偽すら犯してしまふのである。これらの危険を避け、書きたいことを自由に書きのばすために、私に考へられる唯一の手段は、新らたな形式をもとめ、形式の真実らしさによつて逆に内容の発展を自由ならしめやうといふことである。
 四人称を設けることは甚だうまい方法で、この方法によつて確かに前述の自縄自縛がかなりにまぬかれるに違ひない。然しながら私は、日本語に於ける四人称に一つの疑ひを持つものである。
 元来この目的のための四人称は記号の如きもので、肉体を持つとそれは又別の意味のものになる。多少の肉体を具えた四人称は、これは又特別のニュアンスをもつもので、私のここでふれたい問題は完全に肉体を持たない四人称に限られてゐる。
 英語や仏蘭西語や独逸語は主格なしに句をつくることができない。そこで作中の人物でもなく、作家自らでもなく、いはば作品の足をおろした大地からは遊離した不即不離の一点に於て純理的存在をなすところの一談話者兼一批判者(形の上では、つまり narrateur と penseur が一致したやうな体裁である)、一でも多でも全でもあり、同時に形態としては無であるところの第四人称が、外国語では文法的に[#「文法的に」に傍点]必ず設立を余儀なくされるわけである。この種の「私」は不完全ながらも外国文学には時々用ひられてきたやうである。
 日本語は幸か不幸か必ずしも主格の設置を必要としない。彼は斯々《かくかく》に考へたらしい、とか、斯々に考へた様子にも見えた、といふ風に言葉を用ひて第四人称をはぶくことも出来ない相談ではないやうである。「らしい」といふ主体が作者の主観に間違はれる心配は、その前後の語法に多少の心を用ひればまづ絶対にないとみていい。それに私といふ第四人称が顔を出さないだけに、この無形の説話者はいささかの文章上の混乱をまねくことなく作品のあらゆる細部に説をなすことができ、最も秘密な場所に闖入してつぶさに観察する時にも文章上の不都合をまねかない。同時に、第四人称の私が文法的な制約から必ず第四人称に限定されるに比べれば、この無形の説話者は第五人称にも第六人称にもなりえて、益々複雑多岐な働きをすることもできやうと思ふのである。とまれ然ういふ文章の構成法を様々に研究してみたら、極めて軽妙に文章の真実らしさを調へることもでき、従而《したがって》言はうとする内容を極めて暢達
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